絶望からJプロに上り詰めた異才の社会人レーサー 秋山悟郎【La PROTAGONISTA】
絶望からJプロに上り詰めた異才の社会人レーサー
<2019年群馬CSCで行われたJプロツアー交流戦では7位に食い込むなど、2014年のJプロツアー参戦以来年を追うごとにプロのスピードに順応している姿が注目を浴びはじめた。29歳でロードバイクに出合った遅咲きのJプロツアーレーサー秋山悟郎にプロタゴニスタはフォーカスした。> ■■■ PERSONAL DATA ■■■ 生年月日/1977年10月30日 身長・体重/168cm・57kg 血液型/A型。
稲城フィッツクラスアクト 秋山悟郎
【HISTORY】 2009 NFCC プジョーカリオン 2010 フジサイクリングタイム 2011-2014 グルッポアクアタマ 2015-2018 アクアタマユーロワークス 2019 フィッツグルーン 2020 稲城フィッツクラスアクト。 <> 約150人が密集するJプロツアーのプロトン。そこでは車輪を奪い合うポジション争いが生まれ、主導権を握ろうと緩急のスキをついて飛び出すアタック合戦は熾烈を極める。 レースは中盤、数名のエスケープを容認していたトップチームが頃合いを測りチェイスを開始すると、時速50kmを超えた一列棒状の展開が延々と続いていく。最後の勝負に向かうレースは、仲間をも見捨てていくほどの壮絶な戦いだ。 プロトンはたちまちふるいにかけられ、残ったのはエース格と主要チームのアシストたち。そして粘り切った若手選手たちの横で歯を食いしばる一人の選手に声援が飛ぶ。 彼の名は秋山悟郎。40歳を越えてJプロツアーを戦うフルタイムワーカーだ。
屈辱的だったロードバイクデビュー
2009年7月の全日本実業団石川ロードレースERクラス。先行する1人を坂道で単独で追いかけ、険しい表情のまま2番手でゴールに飛び込む秋山を見た。この日からさかのぼること2年前、彼は初めてロードバイクを手にした。 イタリアブランドのアパレル業界に身を置き、仕事で不規則な生活を強いられた20代。30歳手前での転職を機に、慣れない週末の休日を過ごすこととなった。「時間をつぶす道具が欲しいと思い、目についたのがロードバイク。都内の有名なショップを訪ね、バイクパーツの美しさに見とれているうちに買っていました」。 性能など知るよしもなく購入を決めた一台のスチールバイク。そのときツール・ド・草津のエントリーをすでにすませていた。「草津温泉に入ってイベントライドを走れるなんて最高じゃないか! とエントリーしたのが、すべての始まりでした」。 気軽に挑んだレースは、山のキツさにあえぎ苦しみ、14kmのヒルクライムに2時間半、全クラスでビリから4番め。それは想像を絶する地獄の苦しみだった。「女性や子どもにも次々と抜かれ、気づけば山の中腹でハンガーノック……。初めて使ったビンディングペダルもろくに外せず、雪の壁に何度も突っ込みながらフラフラでゴールしました」。 屈辱的なデビューの数日後、沸々と湧く悔しさが彼の闘争心に火をつけた。ヒルクライム攻略をキーワードにパワータップとメーターを購入、ヒルクライムマニアのメニューを参考に自転車トレーニングに取り組んだ。 翌年は知り合った日仏サイクリングクラブに入会、偶然にもこのクラブが実業団登録したことで秋山の道が開けていく。「このころ出会った岩倉航太郎選手が仕事前に40kmも朝練しているという話を聞き、週末でなくても乗る時間が作れるんだと気付かされました」。 こうして始まった自転車トレーニングは強い好奇心と嗅覚で幅を広げていき、いつしか時間があれば自転車に没頭する日々に。実業団レースへの挑戦は2009年。初戦から完走を果たし、シリーズのヒルクライム戦ではしらびそで10位、富士で12位と成果をあげた。「ヒルクライムはがんばっても10位かな……と感じていたところ、石川ロードでは準優勝。そこからロードレースの駆け引きのおもしろさに夢中になりました」。 ツール・ド・おきなわ130kmでも4位の成績を残し、彼の名前はしだいにレース界で知られるようになっていった。