K-1に背を向けた男、小野寺力の誇り。「キックじゃないものはやりたくない」
そのときの心境を小野寺は当時の格闘技専門誌で赤裸々に語っている。 「記者会見を待っているときに初めて(フェザー級GPの開催を)聞いたんですよ。その話、全然知らないよって思って。でも、キックのルールであれば、すごく魅力がありますよ。いい所(東京ドーム)で、あれだけのお客さんの前で。ただ(中略)、一回戦が3分3Rとか、それはキックじゃないですから。その場合だったら、出ません。2ヵ月とかゆっくりやるんだったら(1大会につき1試合ずつ勝ち抜いていくトーナメントという意味)どこでもやりますけど、キックじゃないものはやりたくない。(僕は)キックボクサーですから」(『格闘技通信』1997年7月23日号掲載のインタビューより) 当時のキックボクシングのメインカードは3分5ラウンド制で行なわれており、試合形式はワンデートーナメントではなくワンマッチが基本だった。3分3ラウンドの試合も組まれてはいたが、それは新人や中堅のマッチメークに限られていた。それだけではない。当時のキックは5ラウンド制の試合ではどこの団体でもヒジ打ちが認められ、首相撲からのヒザ蹴りも無制限に認められていた。 しかも、小野寺が所属する目黒ジムは、1966年に日本のキックボクシングがスタートしたときにパイオニアとなったジムで、所属選手たちはみなこの競技に誇りを抱いていた。つまり、その時点ではキックとK-1は似て非なる競技だったのだ。 あの記者会見から27年、現在は自ら主宰するキックボクシングのジム「RIKIX」を切り盛りする傍ら、キック大会『NO KICK NO LIFE』をプロモートする小野寺は、自分の現役生活を大きく左右したK-1フェザー級グランプリについて話し始めた。 (つづく) 文/布施鋼治 写真/長尾 迪