「売れてるのに『M-1』出場してえらい」の違和感。お笑いファンの炎上や衝突はなぜ生まれるのか?
年間100本以上のお笑いライブに足を運び、週20本以上の芸人ラジオを聴く、20歳・タレントの奥森皐月。 【写真】パンダのまねをする奥森皐月【かわいい】 『M-1グランプリ』『THE W』の予選が進み、賞レースが盛り上がる季節がやってきた。今月は「お笑いと賞レース」というテーマで、お笑い界が今抱えているであろう問題を取り上げる。
この世にはいろいろな「お笑い好き」がいる
『M-1グランプリ』が白熱している。今年は史上最多のエントリー数1万組超え。多くのお笑いファンはその過程を予選から観て、楽しんでいる。 しかしながらSNSを見ていると、『M-1』を楽しめないお笑い好きも少なくないということを知った。 応援している芸人さんが早くも敗退してしまった人、配信されている予選動画の多さに疲れを感じている人、お笑いは好きだけれど『M-1』にはあまり熱がこもっていない人。本当にいろいろなお笑い好きがいる。 近年ずっと「お笑いブーム」という言葉を耳にするし、収束した気配はない。『M-1』のエントリー数からもお笑い界が盛り上がっていることはわかるが、今「お笑い好き」には何が起こっているのだろうか。
ここ数年で複雑化してきた「お笑い界」
私自身、幼いころからずっとお笑いが好きだ。好きな気持ちはなくならないし、揺るがない。毎日バラエティ番組を観て、お笑いラジオを聴いて、芸人さんのYouTubeを観て、劇場に行って、とお笑いに生かされている。 ただ、最近「お笑い界」が複雑になりすぎていて、たまに迷子になったような感覚になる。具体的には、お笑いというジャンルが日増しに広く・深くなっていると感じるのだ。 お笑いに限ったことではないが、とにかくコンテンツがあふれすぎている。テレビやラジオをはじめとしたメディアと劇場でのライブに加え、ここ5年くらいでYouTube、Podcast、ライブのアーカイブ配信、文字媒体、ネットラジオ、サブスクの配信番組など、把握しきれない量のお笑いがある。 当然すべてを見聞きすることは不可能だ。この時点で“お笑い好き”といえどもフィールドは広く、あちこちに分布していることは想像できる。お笑いが好きな人同士で出会っても、守備範囲がかけ離れていて会話にならないということも珍しくない。 それらのあらゆる「好き」に優劣はないと思う。テレビバラエティを観るのが好きな人も、芸人さんのラジオが好きな人も、劇場で若手芸人さんを追いかけている人も、お笑い好きならみんな横並び。みんな笑うのが好きな素敵な人。私はそう思っている。 しかしながら、昨今の豊富なコンテンツに対し「どれだけの数を観ているか」「どれだけ理解できているか」「どれだけ知識があるか」「どれだけセンスよく受け取れるか」というように、お笑い好きの中でも優劣が生まれる場面が存在しなくもない気がしているのだ。 少し前に話題になった、“バラエティ番組のキャプチャをSNSに投稿する行為”の延長線上の話だと思う。お笑い好きの中でもSNS上でセンスをアピールする風潮がある、という事実の是非が問われている。 ほかにもYouTubeのコメント欄で目立とうとするとか、お笑いライブでニッチなワードが出てきた箇所で大笑いするとか。 これらは渦中にいれば楽しいことだし、これ自体を悪いとは思えない。でもたまに、それが続いて形成されるお笑いは、限られた人しか楽しめないものになるのかもな、と思うことがある。 お笑いをよく観る側の人の、お笑いを観る筋肉があまりにもムキムキなりすぎている。流行の移り変わりがとにかく速い。 おもしろいものはSNSで一瞬のうちに広がるし、新しいおもしろさが次々と更新されていく。反対にいえば、少し時間が経つだけで“見たことのあるお笑い”になってしまうし、飽きもすぐにくる。 実際私も、Xでバズっている投稿を見て「これ何年か前に〇〇がネタで言っていたな」とか「大喜利ではわりとよく使われているフレーズだよな」なんて思うことがある。 しかしこれは世の中が遅いのではなく、お笑いの世界が速すぎるだけなのだ。自分の感覚は決して正しいものではない、速いものを観すぎているのだ、と自覚することを忘れないように気をつけている。