テクニック重視のサッカーで「初優勝」したマラドーナの母国、その後も続く「独裁国家」での開催【ワールドカップと独裁者の不思議な関係】(2)
蹴球放浪家・後藤健生には、初めて現地観戦したワールドカップで「忘れられない」思い出がある。今回のテーマは、ワールドカップと独裁者の「不思議な関係」について。 ■【画像】「遺伝子強すぎてヤバい」13歳美少女へと成長したベッカム末娘、激カワ素顔が際立つメイク動画を公開「可愛くて美しい」大沸騰の前作超えなるか
■反則もいとわないサッカーが「横行」
アルゼンチンのサッカーは1940年代に黄金時代を迎えていたのですが、当時は戦争のためにワールドカップは開催されず、力を世界に示すことが出来ませんでした。そして、戦後は、アルゼンチン・サッカーは低迷してしまいます。テクニック重視のサッカーが疑問視され、反則もいとわないサッカーも横行。また、経済が低迷する中で多くの選手がヨーロッパに渡ってしまい、代表は弱体化してしまいます。 地元でのワールドカップで優勝することによって政権への支持を高めたい軍事政権は、代表強化のために選手の海外移籍を禁止します。当時、代表監督だったセサール・ルイス・メノッティは、思想的に左派であることを公言しており、亡命も考えたといいますが、結局、軍事政権の思惑に乗って国内組を中心にテクニックを生かした攻撃サッカーを武器とするチームを作ります。 そして、1978年の地元開催のワールドカップで初優勝を成し遂げます。キャプテンのダニエル・パサレラにワールドカップを授与したのは独裁者ビデラ将軍でした。
■2大会連続で「独裁政権下」の大会に
ところで、1974年大会中にはペロン大統領の死去に続いて、スペインの独裁者フランシスコ・フランコ総統の重病というニュースも入ってきました。1930年代のスペイン内戦で左翼政権を打倒して権力を握った軍人です。もっとも、当時のスペイン代表はずっと低迷しており、ヨーロッパ予選でユーゴスラビアに敗れて西ドイツ大会には参加していなかったので、大きなニュースにはなりませんでしたが……。 このときは、命を取り留めたフランコでしたが、結局、翌1975年11月に82歳で亡くなりました。 そのスペインは、アルゼンチン大会の次の1982年ワールドカップの開催国でした。もし、1982年にフランコがまだ権力の座にあったとしたら、FIFAは2大会連続で独裁政権下でワールドカップを開催することになり、批判が高まっていたかもしれません。 しかし、フランコ総統の後継者に定められていたボルボン王家の王子、フアン・カルロスは国王に即位すると、意外なことに矢継ぎ早に民主化を推し進めていきました。 そのため、1982年大会は民主化の流れの中の明るい雰囲気の中での大会となりました。
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