桃園の誓い、断金の交わり……三国志で有名な「義兄弟の契り」は、むやみに結ぶものではなかった?
「われら三人、姓を異にするとはいえ心をひとつに力を合わせ、同年同月同日に生まれることを得ずとも、同年同月同日に死せん事を願う」 三国志のはじまりといえば、まず桃園(とうえん)の誓い。そう思われる方もいるだろう。ただ残念ながら、この「誓い」は正史『三国志』にはなく、小説『三国志演義』による逸話である。しかし、完全な作り話というわけでもない。 「劉備は、関羽と張飛に兄弟のような恩情をかけた。関羽と張飛は劉備のそばを片時も離れず、護衛として近侍した」(恩若兄弟)という記述が正史『三国志』(蜀志)にあるからだ。また「劉備は趙雲(ちょううん)と床をともにして寝た」という『趙雲別伝』の記述も同様で、彼らの強い結びつきが理解できる。 そうした彼らの任侠的な心の結びつきが、のちに「義兄弟」というエピソードになったのだが、残念なことに、物語上でも彼らは「同年同月同日」に死ぬことはできない。関羽と張飛はそれぞれに非業の死をとげ、劉備はその怒りと哀しみから呉へ攻め込んで大敗する悲劇につながる。 では、正史で実際に「義兄弟」の契りを結んだ人はいたのだろうか。馬超伝に引用される『典略』に、その関係がはっきり書いてあるコンビがいた。涼州を拠点にしていた馬騰(ばとう)と韓遂(かんすい)だ。「異姓兄弟」とあり、つまり義兄弟の関係にあったという。 だが、最初はきわめて親密だった2人も、やがては妻子を殺し合うほど関係が悪化。たちまち仇敵になってしまった。「義兄弟」の契りも絶対的なものではなく、やみくもに結ぶべきものではなかったようだ。そもそも実の兄弟といわれる袁紹(えんしょう)、袁術(えんじゅつ)も、きわめて不仲で殺し合いをした関係だった。 さて、正史においても本当の意味の義兄弟だったといえるのが、やはり孫策(そんさく)と周瑜(しゅうゆ)である。彼らの結びつきは『三国志』呉書ならびに『江表伝』(呉の歴史書)に、こう記される。 西暦190年、孫堅(そんけん)は董卓討伐に参加するために挙兵し、家族を安全な寿春(じゅしゅん)に住まわせた。彼の息子・孫策はこのとき15~16歳。その弟の孫権はまだ9歳だった。父の勇名も手伝って、名のある人々が集まってきたが、周瑜(しゅうゆ)もそのひとりだった。 周瑜の祖父・父は大尉(たいい)という朝廷の最高職をつとめており、周家といえば、この江東地方随一の名族。孫堅の武名で成り上がりつつあった家に過ぎない孫家にとって、これは有難い限りで、のちの孫策の江東地方制圧も、この周瑜の家柄と実力が大きくものをいった。 孫策も「容姿に秀でた」と書かれているが、周瑜も立派な風采で英邁闊達(えいまいかったつ)との記録があるところも注目ポイントであろう。いわば同い年のイケメンの若様たちは意気投合して親交を結ぶ。その友情の強さは金属をも断ち切るばかりだった。義同断金、すなわち「断金の交わり」である。 やがて孫策と周瑜は二橋(にきょう)を妻にする。二橋とは皖城(かんじょう)に住む橋公(きょうこう)という人の娘姉妹で姉の大橋を孫策が、妹の小橋を周瑜が妻にもらったのだ(『三國志演義』などでは大喬・小喬と記述)。 こうして孫策と周瑜は本当の義兄弟になった。しかし西暦200年、義兄の孫策が刺客に襲われて急死してしまう。26歳の若さであった。あとを継いだ孫権にとって周瑜は兄にも等しい存在。のちに曹操が南下してきたとき、周瑜がいっさいを取りしきり「赤壁の戦い」の采配を振るったのも、自然のなりゆきだったといえよう。 だが、その周瑜も孫策の死から10年後の210年、志半ばで病死する。持病か流行り病か。曹仁(そうじん)との戦いで受けた矢傷が悪化したという見方もある。 正史『三国志』に「義兄弟」という言葉は出てこないが、それに近い「異姓兄弟」とか「恩若兄弟」といった文字は出てくる。 生死をともにと誓い合う志はあったとみられるが、やはり、それはよほどに心が通じ合った者同士が結ぶもので、きわめてレアな関係だったものとみていいだろう。 見逃せないところでは『傳子』(ふし)という文献に、張遼と関羽の関係がある。張遼は関羽が曹操のもとを去ろうとしているのを知り、報告をためらう。しかし「曹公は主君であり父、関羽は兄弟にすぎぬ」と、葛藤したすえに知らせたとある。張遼と関羽がかなり親密だった可能性は十分にあろう。 なお、孫策と周瑜の「断金の交わり」については漫画『美周郎がはなれない』(しちみ楼 イースト・プレス 2023年上・下巻刊行)に、新解釈も交えて描いているので、気になる方はチェックされたい。
上永哲矢