千姫事件を起こした坂崎直盛の「義憤」
■直情的に「義憤」に駆られる坂崎直盛 坂崎直盛(さかざきなおもり)は、関ヶ原の戦いでは従兄弟の宇喜多秀家(うきたひでいえ)との対立から東軍として戦い、大坂の陣では救出した千姫(せんひめ)の再嫁先を巡って幕府と対立した武将として知られていると思います。 直盛は殺人を犯して逃亡した、家中の者の引き渡しを親類の大名に執拗に求めていますが、当時は戦国武将の多くが出奔(しゅっぽん)した家臣へ執拗に奉公構(ほうこうかまい)をしていました。その一方で、関ヶ原の戦いで改易された大名を迎え入れ、温かく処遇しています。また、秀吉による禁教令から二人の宣教師を逃がしています。 このように、直盛は「義憤(ぎふん)」に駆られて行動する、非常に直情的な性格だったようです。 ■「義憤」とは? 「義憤」とは辞書等によると「道義にはずれたこと、不正なことに対して憤慨すること」をさします。似た言葉に「私憤」がありますが、こちらは「個人的なことに対する恨み、私事の怒り」とされているように、怒る理由に大きな違いがあります。 「義憤」には、道義や正義に反していること、公正さを欠いていることに対する心情といった、社会的なものへの怒りという意味が強く含まれています。直盛は「義憤」を感じると、他を省みずに直情的に行動する武将でした。 ■坂崎家の事績 坂崎という名字は、宇喜多忠家(ただいえ)の子として生まれた直盛が、宇喜多家を離れた際に家康の指示を受けて名乗ったと言われています。それまでは宇喜多または浮田を名乗っており、当主であった宇喜多秀家とは従兄弟の関係にあります。宇喜多家は出自が不明な点も多く、歴史に現れるのは応仁の乱後で、現在の岡山県岡山市にあった金岡東荘の土豪と言われています。 元来は赤松家に従属していたようですが、浦上家が頭角を表すと、これに家臣として仕えて、祖父能家(よしいえ)が重用されています。その後能家の死によって一旦没落しますが、伯父直家(なおいえ)が浦上家中の内紛に乗じて、勢力を拡大していき、最終的には主家浦上家を滅ぼします。 織田家と毛利家の狭間で立ち回りを演じていたものの、直家の死後は秀吉の庇護(ひご)の元で備前国を領する大名となります。当主の秀家は、豊臣家の一門衆として扱われ、豊臣政権で枢要な地位を得て、最終的には五大老の一人となります。 しかし、秀吉死後に宇喜多騒動と呼ばれる家中での派閥争いが激化していきます。直盛は親族でありながらも、秀家の中央集権型の領国運営に反発し対立を深めた結果、宇喜多家を離れて、家康の直臣となります。この時から坂崎を名乗るようになります。