千姫事件を起こした坂崎直盛の「義憤」
■誤解を生みやすい「義憤」 直盛は良くも悪くも「義憤」的に行動をするため、ネガティブに捉えられることも多いようですが、津和野の藩政では、後に石州和紙として地場産業となる楮の木の栽培を奨励するなど、その後の発展に貢献しています。 直盛の執拗な性格が伝わる事件として、富田家の改易も知られています。これは、直盛の甥である宇喜多左門が、直盛の小姓と関係を持ち、小姓が処刑されたことが発端でした。処刑に不満を持った左門が、その後処刑を実行した家臣を殺害して逃亡し、直盛は長年にわたって左門の行方を追い続けました。 妹の夫である、富田信高らが改易される結果となったことから、直盛の執拗さが注目されがちですが、この場合は左門の所業にも、かなり問題があったと思います。執拗な奉公構は、細川忠興(ほそかわただおき)や黒田長政(くろだながまさ)にも見られるものでした。 現代でも「義憤」のために行動したものの、周囲の理解を得られなかったため、その後の印象を悪くしてしまう人の例が多々あります。 坂崎家が残っていれば、維新後に華族として宇喜多家が復活できたかもしれません。 ちなみに、直盛の父の忠家は、戦国の三梟雄と言われた兄の直家よりも苛烈な性格で、直家の側近を惨殺するような性格だったと言われています。
森岡 健司