超レア!ウィリアム・タウンズによる5台の傑作車に一挙試乗【ミニッシマ編】
前衛的な作品で知られるデザイナー、ウィリアム・タウンズによる5台の傑作車を一堂に集めそのすべてに試乗した。 【画像】素晴らしく未来的でありながらコンパクトなシティカー、ミニッシマ(写真6点) ーーーーー ここ数年、自動車雑誌ではアストンマーティン・ブルドッグの関連記事が目立った。今ではレトロとさえ見える、懐かしさを覚える風変わりなスタイル。過ぎた時代のワイルドなコンセプトのハイパーカーが2023年6月6日、発表当時に構想されていた最高速度200マイル超を40年以上振りに遂に実現したのだった。 ●タウンズに魅了されて収集をはじめた このブルドッグの現在の飼い主は、米国のコレクターで慈善家のフィリップ・サロフィムである。アストンマーティン社のかつての社主であったビクター・ガントレット氏の息子リチャード・ガントレット氏と緊密に連携し、膨大な時間をリサーチに充て、さらにはバッキンガムシャー、ニューポート・パグネルのアストンマーティン旧本社工場の元従業員たちに聞き取り調査も行った上、その後何年も経ってから購入交渉を行った。 ブルドッグのケアを任されたのは、かつてジャガーMk.2のレストモッドの草分けであったヴィカレッジのオリジナルメンバーが独立したCMC(クラシックモーターカーズ)だ。彼らは今やクラシックカー全般のレストアで高い評価を得ている。 サロフィムからブルドックのケア依頼を受けたCMCは、発表当時の1980年の状態に戻すための、2年にわたる延べ7000時間の作業を完了した。2021年にロンドン郊外のハンプトンコートで完成披露を行うと、2023年6月の某日、スコットランドのキャンベルタウンで、アストンマーティンのファクトリードライバーのダレン・ターナーがステアリングを握って、 開発時の目標を上回る205.4mph(330.5km)を記録した。 優れたデザインに情熱を抱きながら、1993年に癌のため惜しくも56歳の若さで亡くなった英国の工業デザイナー、ウィリアム・タウンズをリスペクトしていたサロフィムにとって、 これはまさに夢が叶った瞬間だった。 今日、タウンズの作品としては、1967年のアストンマーティンDBS、1976年に登場した先鋭的ウェッジシェイプの アストンマーティン・ラゴンダなどがよく知られている。それ 以外にも多くの作品を残しているが、ちょうどブルドッグのレストアに世間の関心が集まっていた時期、サロフィムはタウ ンズが手掛けた歴史的に重要な4台のモデルを密かに入手していた。ミニッシマ、マイクロドット、ハスラー、トレーサー の4台で、同様にCMCに修復を依頼していたことを知る人はあまりいなかった。 ●5台が勢揃い 5台の車すべてが、「英国のアフタヌーンティー発祥の地」として知られるベッドフォードシャーウォーバーンのウォーバーンアビーの壮観な敷地に集まった。「アフタヌーンティー」は1840年頃、ウォーバーンアビーの第7代当主フランシス・ラッセル夫人のアンナ・マリア・ラッセルによって始められたと言われている。 ブルドッグはここで仔犬たちとの再会を果たした。ウォーバーンアビーは1979年にテムズテレビジョンの番組『Wheels』で、タウンズと彼の車の取材が行われた場所であり、ブルドッグの初お目見えの舞台でもあった。すなわち、今回の撮影のためにこれらの車全てをここに集めるだけでも十分に意義深いことだが、さらに『Octane』はブルドッグも含めてそれらを取材し試乗する独占的な許可までも得ていた。 ●1973 MINISSIMA(ミニッシマ) この5台中の最も古いモデルであるミニッシマは、最も風変わりな車両だといえる。素晴らしく未来的でありながらコンパクトなシティカーは、当時その栄華の絶頂にあったブリティッシュ・レイランドという堅固で巨大な企業によって生産されるはずであった。元々はコンパクトカーとして革新的な存在であった、同社のミニの後継としてのタウンズのアイデアであり、ロンドンでの1973年アールズコート・モーターショーではBLMCスタンドに、期待されていたアレグロに代わり「ミニッシマ」のモデル名で展示された。さらにBLMCはこのプロジェクトの商業権を2万ポンドで購入したが、これは現在の25万ポンド以上にも相当する巨額だ。また、2年以内に生産が実現しなかった場合、権利はタウンズに帰するという契約であったが、まさにその通りのことが起こった。 都市部の自動車渋滞は1973年でもすでに大きな話題になっており、ミニッシマはその問題への答えのひとつとなり得る、1950年代に登場したマイクロカーの一種、バブルカーの新しい解釈であった。タウンズはこれを自分の名前とタウンコミューターをかけて「Townscar」と呼んだ。それはシャープな外観、ウェッジノーズのプロファイルで徹底的に現代化されていたが、BLMC製Aシリーズ848ccエンジンと10インチのホイールというミニの実績のある基本は踏襲していた。ミニッシマへの唯一の乗降方法はサイドヒンジ付きの後部ゲートからで、BLMCミニよりも75cm短い全長のため緑石に対して直角に駐車できるという点はよかったが、ゲートを開けるスペースを考慮して駐車しないと乗員は車中に閉じ込められてしまう危険性があった。 ただし、サイドドアがないことが、ミニッシマの驚くべきインテリアパッケージングには幸いしている。現代では当たり前のショート&トールのプロポーション。完全な4人乗りながら、前席は通常通り前方を向くが、後部座席は向かい合うレイアウトとしていた。リチャード・ガントレットはこれをデメリットではなく長所だと考えている。車内でのコミュニケーションが向上するというわけだ。「それは最も社交的なモータリングライフです」と言う。インテリアトリムは全体が耐久性に優れたツイード風の生地で覆われ、フェイシアを含む各所の平らな面の下には多くの収納スペースが設けられている。 BLMCの部品から既存モデルのパーツを巧妙に選び出した結果、オースティン1100のスピードメーター本体とメータークラスターが採用され、モーリス・マリーナのドアハンドルは水平に取り付けられてプルアップ式のリアドア・ハンドルとなり、ラジオのカラフルなプッシュボタンスイッチ、オートマチックトランスミッションのゲートやセレクターレバーなどとともに運転席右側のサイドコンソールに収納された。4脚のシートはフラットでシートバックが低く、正直なところあまり快適ではなく、明らかに長距離旅行に適した車ではない。だが、4段ATのギア比は市街地の交通には完全に適し、ステップスルー設計はかなり扱いにくい荷物も持ち込むことが可能だろう。 多くのコンセプトカーとは異なり、ミニッシマは純粋に「本物の」車に近く、渋滞で後方から追突されない限り、日常で楽しく使用できるだろう。しかしこの安全性への問題こそが、BLMCがミニッシマのプロジェクトをそれ以上前進させなかった理由のひとつであったと考えられる。しかしミニッシマは別の形で生き続けた。BLMCがそれを却下した後、装甲車や特殊車両などで知られるエンジニアリング会社のGKNサンキーは、その設計を福祉車両に変更した。 これを1913年創業の老舗自転車メーカー、エルズウィックが採用し、サイドドアの追加や車椅子の収納などの設計調整を行った上で、1981年にエルズウィック・エンボイとして発売した。エルズウィック自身には生産能力はなく、実際のエンボイの生産は3輪福祉車両などで知られるリライアント社が行った。この時点でミニの848cc Aシリーズ・エンジンは既に生産が終了していたため、メトロの1リッター、AプラスエンジンとATが採用され、広大なグラスエリアからの熱に対処するためエアコンがオプション設定となった。 1987年までに200台ほどが製造されたが、ミニッシマのオリジナルコンセプトは非常に明快であったため、実際に購入できるコンセプトカーの稀な例として現在も残っている。 中編に続く…。 編集翻訳:小石原耕作 (Ursus Page Makers) Transcreation:Kosaku KOISHIHARA (Ursus Page Makers) Words: Mark Dixon Photography: Jordan Butters 取材協力:ベッドフォード公爵、CMC クラシックモーターカーズ社、フィリップ・サロフィム、リチャード・ガントレット、リジー・カリス、デイビッド・バージリー
Octane Japan 編集部