先代の琴櫻はなぜ「突然変異」の連続優勝&横綱昇進を果たせたのか…今も忘れない「昭和48年1月」最大の謎
突然変異おじさんが優勝!
いきなり十四勝一敗で優勝した。負けた相手は小結の金剛だけ(八日目寄り倒し)。 このとき横綱は北の富士だけの一人横綱の時代。大関は輪島と貴ノ花と清国と琴櫻の四人だった。 大鵬は前年の昭和四十六年に引退している。 ちなみに昭和四十七年の琴櫻は、一月場所から十勝、十勝、一勝(二敗十二休)という成績で来ている。一月三月はまだ調子よかったが、五月は一勝しかしておらず、「無気力相撲の大関」という印象が強かった。七月も八勝、九月は九勝で、十一月の場所前に、たぶん誰一人として、優勝候補としてマークしていなかったとおもう。 それが突然変異のように、十一月場所で十四勝、続く昭和四十八年の一月場所でも再び十四勝と連続優勝をなしとげたのである。 一月場所での一敗は十二日目の前頭三枚目の福の花(下手投げ)だけである。 福の花、とか、金剛、とか書いてるだけでものすごく懐かしい。 琴櫻は当時、すでに三十二歳で、横綱昇進するにはきわめて高齢であった。 でも「大関で連続優勝」すれば、それでやはり無条件で横綱に推挙されるのである。 何が何でも連続優勝さえすればいいのか、とそれはそれでおもしろかった。すればいいんである。 琴櫻は場所後、横綱に昇進した。 この年齢の人が(当時の感覚でいえば引退する年齢の人)これから横綱になって活躍できるのだろうか、というのは、たぶん多くの相撲好きがおもったことであった。 もはや輪島や貴ノ花の時代になっているのに、なぜ、突然変異のおじさんが優勝して横綱になったんだろうというのは昭和四十八年一月の大きな謎であった。
多くの人が抱いていたであろう懸念
昭和の琴櫻は、この「突然変異の連続優勝」がとても印象深い。当時の相撲を見ていた人、すべて同じおもいだとおもう。 はたして横綱は務まるのかという懸念はあったのだが、昇進後は、十一勝、十勝ときて、(それぞれ優勝は北の富士、輪島)、七月場所に十四勝をあげて優勝した。このときの一敗の相手は横綱北の富士で、北の富士もまた十四勝一敗で場所を終えたので優勝決定戦で彼を倒しての優勝であった。横綱として一回優勝した。そのあと五場所相撲を取るが、優勝はなく、昭和四十九年七月場所で引退した。 このころ私は高校生で、四つ下の小学生の弟が、何のときだがいきなり「琴櫻はバク宙ができるらしい」と教えてくれた。私は素直に驚いて、琴櫻が宙返りする姿を何度も想像してしまった。そうか、相撲取りは別にただの力持ちの集まりではなくて、運動神経が抜群にいい人たちもいるんだなと気がついて、そこが新鮮な驚きだったのだ。 いまでも相撲取りを見ても、この人は宙返りくらいは簡単にやりそうだなあと想像するようになった。 ちなみに「琴櫻はバク宙ができる」という言葉の根拠は小学生だった弟の言葉だけで、その後、何も確認していない。つまりほぼ無根拠なので(弟が力士名を取り違えてなかったことを祈りつつ)その部分は留意して読んでいただきたい。 令和六年五月場所は、大の里が優勝した。 二代目の琴櫻は最後まで優勝争いにからんでいたが、十四日目に阿炎に敗れたのが大きく、そのまま大の里に逃げ切られた。まだ圧倒する力を発揮するにはいたっていない。 大の里と琴櫻は六日目にあたって、大の里が勝った。 録画している取り組みを見直しているとき(うちで録ってるのは「幕内全取組」という早朝の番組です)、二人の対戦を見て、これはこの先のとても長い対戦の序章なのかもしれないとおもった。つまり大鵬と柏戸の21勝と16勝とか、輪島と北の湖の23勝と21勝とか、月日とともに重みを増す対決になりそうだな、とおもったのだ。 王鵬もぜひそこに入って欲しい。 日本の相撲はその気になれば記録がいくらでも調べられるのがおもしろい。 私がもっている雑誌の記録で(『古今横綱大事典』昭和六十一年 読売新聞社)とても気に入ってる部分は、実質初代横綱の谷風の星取り表が載っているところである。谷風の連勝を小野川が止めた日もわかる。天明二年二月場所八日目だ。江戸中、大騒ぎだっただろうなあ、と考えてるだけで楽しくなる。 ついでに自分の大相撲の記憶はどのあたりからか、と探ると、大関の北葉山は名前は知っているが取り組みを見た覚えがなく、そして「大鵬、柏戸、栃ノ海、佐田の山」の四横綱時代をよく覚えているいるので、どうやら「昭和四十一年の夏ころ」という推察ができる。小学三年生のときだ。 大相撲を長く見てると、あっちからもこっちからも楽しめて、いつもおもしろい。
堀井 憲一郎(コラムニスト)