「ライバル自滅」絶頂期でも道長の不安尽きない訳 娘の彰子も入内する中、道長は次の一手を模索
NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第14回は兄の道隆などライバルたちが亡くなっても、道長の不安が尽きなかった理由を解説する。 【写真】道長の娘である藤原彰子は後一条天皇を産む。写真は後一条天皇陵
著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。 ■「将来の后に」と期待された彰子 藤原道長が妻の倫子との間に、女児をもうけたときには、大変な騒ぎとなった。懐妊がわかった時点で、大々的に安産祈願の祈祷が行われている。いざ生まれるとなれば、周囲のざわめきはなお一層、大きいものとなった。 倫子が産気づくや否や、多くの僧がやってきて読経を始めるわ、道長の父である兼家や、姉である詮子からは「どんな様子なのか」とひっきりなしに問い合わせはあるわで、バタバタだったらしい。
いかに道長と倫子の子が、周囲の期待を背負っていたかがわかる。出産する倫子の父である左大臣の源雅信も、さぞ心配したことだろう。 そんな祈りのお陰もあってか、倫子は激しい痛みに悩まされることもなく、女児を出産することとなった。『栄花物語』には、次のようにある。 「この御一家は、はじめて女生れたまふをかならず后がねといみじきことに思したれば、大殿よりも御よろこびたびたび聞えさせたまふ」 まだ生まれたばかりだが、「将来の后に」と期待して育てられた。それが、藤原彰子である。
■イベントに藤原実資が現れず物議をかもす 正暦元(990)年12月には、3歳になった彰子の「着袴の儀」(ちゃっこのぎ)が行われた。「着袴の儀」とは、天皇から贈られた袴を初めて着る儀式のことで、現在の「七五三」の源流となっている。 政治的にも重要なイベントだったが、『小右記』を残したことで知られる藤原実資は、この「着袴の儀」を欠席。どうも連絡に行き違いがあったらしい。翌日に「雅信や道長が不快感を持っていた」と聞き、驚いて謝罪に行ったという。