「ライバル自滅」絶頂期でも道長の不安尽きない訳 娘の彰子も入内する中、道長は次の一手を模索
だが、前月の11月には、実資はこんな日記を書いている。左大臣とは、源雅信のことである。 「今日、 左大臣が審議される事が有った。その告げが有ったとはいっても、昨夜の深酔いの残った気分が堪え難く、参ることができなかった」 (「今日、左府、定め申さるる事等有り。其の告げ有りと雖も、去ぬる夜の淵酔の余気、堪へ難く、参入することを得ず」) なんと二日酔いで、公卿が行う審議に参加できなかったというのだ。このとき実資は34歳である。いい年をして、何をやっているんだ……これでは「着袴の儀」の欠席で不審に思われたのも無理はないだろう。
その後、時は過ぎて長保元(999)年、彰子は12歳になると、裳着を行って入内するが、このときも、実資は道長から不興を買いかねない行動をとっている。 というのも、彰子の入内にあたって、道長は和歌を集めた高さ4尺の屏風を作り、彰子に持たせようと考えたらしい。道長の日記に「四尺屛風和歌令人々読」とある。 屏風絵は人気絵師の飛鳥部常則(あすかべのつねのり)、屏風歌を書き込むのは名書家の藤原行成(ゆきなり)という豪華な布陣だ。歌人も選りすぐりで、藤原公任、藤原高遠、藤原斉信、源俊賢などが和歌を献上することとなった。「詠み人知らず」というかたちで、花山法皇の和歌まで加わっている。
そんななか、実資だけは献上しなかった。今度は二日酔いでもなければ、連絡の行き違いでもなかった。道長から再三、催促されても「大臣の命で歌を作るなど前代未聞」と拒否し続けたという。 権力者からすれば、何とも扱いづらい実資。だが、道長はそれだからこそ、実資のことを信用したようだ。実務能力に長けた実資の協力を得ながら、道長は政権を運営していく。のちに、道長の嫡男である藤原頼通も実資を頼ることとなった。 ■短かった兄・道隆の絶頂
そんなふうに、彰子が3歳で「着袴の儀」を迎えてから(990年)、12歳で入内に至るまで(999年)の10年足らずで、政治の情勢は大きく変わった。 彰子の着袴の年に、一条天皇が11歳で元服すると、道長の兄で摂政の藤原道隆は娘の定子を15歳で入内させて、女御としている。まもなくして父の兼家が亡くなると、道隆は娘の定子を「中宮」にすると言い出した。 当時、天皇の祖母である「太皇太后」、天皇の母である「皇太后」、そして天皇の妻である「皇后」が「中宮」と呼ばれており、このときすでに3人の中宮がいた。加えて、定子が中宮になれば、4人も皇后がいることになる。