学ぶべきがあまりにも多い「幕末の人材登用」術 かつての敵、身分も関係なし 優秀な人材は「国家のため」要職に
【井上和彦 永田町よ先人に学べ】 明治政府は1869(明治2)年、現在の防衛省にあたる「兵部省」を設置し、英国式の海軍士官養成を行う海軍操練所を東京・築地に開設した。海軍力の整備・増強は、最重要課題だったのである。 徳川幕府も海防の必要性を痛感し、55(安政2)年に「長崎海軍伝習所」を開設していた。ここでオランダから海軍を学んだ勝海舟は後に軍艦奉行を任じられ、神戸に海軍操練所を開設した。坂本龍馬もここで学んでいる。 明治政府は70(明治3)年11月、海軍操練所を「海軍兵学寮」と改称した。日本海軍にとって、オランダ海軍は〝生みの親〟であり、明治維新後は、英国海軍が日本海軍の〝育ての親〟となったのだ。 72(同5)年、兵部省が廃止されて「海軍省」と「陸軍省」が新設された。初代「海軍卿」(のちの海軍大臣)には勝海舟が就いた。 特筆すべきは、第3代海軍卿は、戊辰戦争では旧幕府軍を率いて新政府軍と戦い、函館の「五稜郭の戦い」で敗北して降伏した榎本武揚だったことだ。 榎本武揚は、長崎海軍伝習所で学んだ勝海舟の後輩であり、海軍を学ぶためにオランダ留学した、日本きっての海軍軍人だったのである。 当時の日本は、かつて敵として戦った相手であろうと、優秀な人材を要職に登用して「国家のため」に働いてもらったのだ。 薩摩藩主、島津斉彬の人材登用術も忘れてはならない。 1860(万延元)年、日米修好通商条約の批准交換のために米国に派遣された「咸臨丸」には、艦長の勝海舟や福沢諭吉のほか、通訳として「ジョン万次郎」こと中浜万次郎が乗り込んでいた。 漁師だったジョン万次郎は遭難から10年後の51(嘉永4)年、米国の船で琉球に上陸した。このとき薩摩藩主の島津斉彬が、彼の造船術をはじめとする豊富な知識や英語力に着目して、さまざまな分野の教育者として重用したのだった。 この当時、オランダ語のできる者はいたが、英語のできる者は貴重な存在だったのである。正確な英語力を備えたジョン万次郎がいなかったら、日米修好通商条約とその後の日米交渉はどうなっていただろうか。ジョン万次郎の果たした役割は極めて大きい。 いかなる身分でも、卓越した能力や技能、そして豊富な知識を持った者であれば、重用して社会に貢献させる島津斉彬の先見の明こそが、日本を救ったといえよう。ちなみに、下級武士だった西郷隆盛という傑物を見いだしたのも、この島津斉彬だった。