劇中でフィルムカメラが使われている理由は? 映画『シビル・ウォー』の細部に宿る魅力を考察&評価【映画と本のモンタージュ】
戦争映画を考察する上で重要な「視点の問題」
本作で内戦となった理由はファシズム政権となった連邦政府に対して19の州が連邦から離脱。その内のカリフォルニア州とテキサス州が同盟関係にあり西部勢力として政府と戦争をしている構図である。 民主党支持者が多いカルフォルニア州と共和党支持者が多いテキサス州が手を結ぶという状況も面白いが、状況説明が限定的なため、かえって見る側が劇中の内戦に現実の対立構造を当てはめる余地が生まれているのがユニークである。また劇中の架空の内戦が現実世界の「分断」の扇動にならないように慎重に対立構造を現実から距離を置いた描き方をしていることにも感心した。 戦争映画を見る上で注目しているのは「視点」である。例えば『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』(2017)のように政治から戦争を描いているのか、はたまた『プラトーン』(1986)のように一兵士の視点から戦場のリアルを描くのか、そして『この世界の片隅に』(2016)のように市井の人々から戦争を描くのか、「視点」をどこに据えるのかで戦争映画の温度や濃度、解像度が大きく変わってくるからだ。 『シビル・ウォー』はジャーナリストから見る「戦争」であった。もちろん映画の核心部(本作の場合は大統領本人)へ突き進むドラマチックな動機として主人公がジャーナリストであることは重要だが、と同時にジャーナリストであるがゆえに「今なにが起こっているか」を知ろうとする意思が主人公他と見る側とが違和感なくリンクするのである。 例えば劇中で狙撃手と狙撃手が対峙した場面に遭遇するが、彼らはジャーナリストとしてその場に留まり、対峙している兵士たちに肉薄するのである。こうした劇中の主人公たちの行動と洞察によって見る側をよりリアルな内戦の世界へと引きずり込んでいくのである。
非正規の軍人とフィルムカメラの描き方
そして本作で白眉なのはジェシー・プレモンスが演じた迷彩服の男だろう。戦争の恐ろしさはミサイルや銃撃よりも彼が登場するこのシーンに凝縮されている。彼は迷彩服こそ着ているものの部隊章が無いことから正規の軍人ではなく、また自警団か民間のミリシア(民兵組織)にも所属していないだろう。 戦時において軍事組織などの規律にも属さない武装した個人による殺戮が横行したことは旧ユーゴスラビア紛争や、ソマリアなど過去の戦争を見れば明らかである。戦時において生殺与奪をもった個人がいとも簡単に人を殺すというシーンはあまりに理不尽で不条理であり背筋が凍るほどショッキングである。 もうひとつ興味深かったのはジャーナリストである主人たちがもつカメラである。 マグナムフォト(1947年にロバート・キャパやアンリ・カルティエ=ブレッソンたちが結成した世界的写真家集団)に所属するというリーが持つのはSONYの「α7」というミラーレスのデジタルカメラである。対して若手カメラマンのジェシーはNIKON FE2(たぶん)という銀塩(フィルム)カメラで、しかもモノクロフィルムを使用している。 デジタルカメラの撮影枚数は保存先のストレージ次第であり撮影枚数の上限は実質無いに等しく、失敗を恐れず何回でもシャッター切ることができる。対してジェシーが使用するカメラはフィルムで巻き上げ式。一枚撮影するごとに右手でフィルムを巻き上げなければならず、現代において戦場での即応性という点では場にそぐわないカメラである。 しかしなぜフィルムカメラを登場させ、またこれほどまでに詳細に描いたのか。構図からピント、シャッタースピード、絞り、そして露出など、撮影枚数に限りがあるフィルムカメラでシャッターを切る瞬間はデジタルカメラ以上に被写体への意識が強く働く。 そこには他者に対して想像力や感情を少しも向けることなく簡単に引き金を引く分断した世界の中で、ジャーナリストという他者に強く関心を持ち続けるジャーナリストとの対比が見出せる。また動画が隆盛である今の時代において「写真」を報道の術として用いるジャーナリストを主人公にした点でも本作は示唆に富む。 動画やライブ映像の報道などからは臨場感が伝わるが、写真は事実の記録とともに見る側の感情を沈めさせ冷静な眼差しを与えてくれるのである。