3年目の挑戦「どちらでも勝負できる。選択肢と武器を手に入れましたが日本シリーズで答えが分からない僕の課題も理解できたんです」【宮城大弥の一生百錬 僕が僕であるために】
能見さんからの言葉
2年目までは打者の左右に応じて変えていたプレート位置ですが、3年目は一塁側に固定。どちらでも対応できる自信を得ました
迷わずに進むことは大事だけど、考えることだって絶対に必要。このバランスってものすごく難しいんです。先走ってしまいましたが掲載期間がやや空いてしまいました……(スミマセン)、今回は僕のプロ3年目、昨年(2022年)を振り返りたいと思います。 1年目に一軍デビューができ、2年目に開幕から一軍の先発ローテに入って2ケタ13勝を挙げることができて迎えた3年目。一軍では“実質2年目”のシーズンでした。『2年目のジンクス』という言葉もありますが、そう言われない1年を過ごしたいと思っていたのは、『何年も活躍する選手』というのが入団時からの目標だったからでもあります。だから、前年よりも良い成績を残したいと思い、13勝以上を目指しつつ、2ケタは勝てるようにと思って挑んだシーズンでした。 とはいえ、『2年目のジンクス』も多少は感じていたんです。僕のデータも相手に行っているし、バッターも僕の球筋を知っている。相手の対応の違いが、2年目のジンクスであり“2年目の難しさ”なんだなって。前年に通用したからといって、また通用するとは限らない。同じことをやっても、結果が同じにはならないこともある。プロの世界の厳しいところです。 そんなことを考え過ぎていたのかもしれないんですが……。というのも、この年の最初の登板(3月26日の西武戦=ベルーナ)の初回、山川(山川穂高)さんに、高めのボール球をスタンドに運ばれてしまって。このホームランがずっと頭に残ってしまっていたんです。ストライクゾーンだったら、打たれても切り替えられましたが、ボール球を簡単に運ばれた。キレがないのかなとも思ったりもしましたが、それ以上にボール球を投げるときも注意しないといけないと思ったんです。 経験は力になるけど、ときに慎重になり過ぎてしまうこともある。1球の怖さを知ったことで丁寧に、丁寧に──の思いは結果が出なくなってからより強くなっていき……。6月までに6勝を挙げることができましたが、6月末から1カ月以上勝てなくなると、どんどん空回って。僕は完璧を求め過ぎていたんです。そんなとき、能見(能見篤史・当時投手兼任コーチ)さんにこう言われました・・・
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週刊ベースボール