「現役ライダーはノリックから学ぶことがあるはずだ」Racing adviser・解説者 辻本聡さん
ノリックこと阿部典史は、プロフェッショナルライダーを夢見て、サーキット秋ヶ瀬で腕を磨き、アメリカ修行に飛び出した。史上最年少で全日本ロードレース選手権チャンピオンとなり、ロードレース世界選手権にデビュー、最高峰クラスのチャンピオンを目指した。 常に前を向き、顔を上げてライダー人生を切り開き、圧倒的オーラを放ち、くったくのない笑顔で、ファンの心を鷲掴みにした。 ノリックの幼少期から、サーキット秋ヶ瀬の仲間、全日本ロードレース、ロードレース世界選手権と、彼が懸命に生きたそれぞれの場所で、出会った人々が、彼との思い出を語った。 ────────── Racing adviser・解説者 辻本聡さん ────────── 全日本デビューしたノリックとGP500で戦う。六本木の飲み仲間でもあり、ノリックの兄のような存在であり、公私ともに親交があった。 出会い・17歳~ 【プロフィール】 ヨシムラで才能を開花させ1985年~86年全日本ロードレース選手権TT-F1チャンピオン。1987年アメリカスーパーバイク選手権でケビン・シュワンツやウェイン・レイニーのライバルとして戦う。帰国後スズキワークスライダーとして全日本500で活躍。1992年ホンダ移籍、鈴鹿8時間耐久で表彰台の常連となる。その後はアドバイザーとして若手育成に関わる。TV解説者でもある。Café PLOTA MOTOオーナー。
最初は「こいつ、誰?」って、気にも留めなかった
最初にノリックを知ったのは、てっぺーさん(中尾省吾)からの1992年の年賀状。黄色と黒のバイク(TZ250)に乗った写真で「誰?」って、まったく知らなくて、てっぺーさんの推しか?っと思っていた。あ~、あれがノリックかと思ったのは、ずいぶん後だった。 まあ、あの時は他のライダーのことを気にする余裕がなかったというのが本音。自分はスズキで走っていたのがホンダ車に変わって、1992年の鈴鹿8時間耐久で伊藤真一(ホンダのエースライダー)と組んで優勝まで、後少しと迫った走りが認められて、1993年には型落ちの500から、最新のビッグバンエンジンに乗れることになった。 1993年の全日本500はロードレース世界選手権(WGP)に行くことになった年で、ホンダでタイトルを取るの自分だと狙っていた。それが、2月の鈴鹿テストで転倒してしまって…。その後のSUGOでも転んで…。このシーズンはまともに走ってない。だから、ノリックとも絡んでいないから特に印象は残っていない。でも、この年、チャンピオンになったのはノリックだった。 でも、1994年のロードレース世界選手権(WGP)日本GPは覚えている。ノリックは、マシンコントロールがうまいんだよね。特に鈴鹿のシケインから最終コーナーの走りは「すぅげ~」と唸るほど。どうやったら、そんな走りが出来るの?海外のライダーは「誰、こいつ」って絶対に思っていたでしょう。ケビン・シュワンツ、ミック・ドゥーハンとバチバチやっているんだからね。インパクト大の走りを世界中に見せた。みんなが拳を握って「イケェー」って叫ぶような走りをしていた。 あのレースが象徴するように、期待以上の走りを見せてくれるのがノリックだった。人気の秘密はそこにあったと思う。決してWGPの勝利数は多くはないけど、スタートが上手くて、予選が悪くてもトップに躍り出て、豪快な走りでレースをかき回して競り勝った。勝てないレースでも印象に残る走りばかりだった。 世界に行ってからは、オフシーズンに戻って来た時に、よく六本木に飲みに行った。岡田忠之(1997年WGP500ランキング2位)と喧嘩して、うるさいから外でやりなってふたりを追い出したこともあった。喧嘩の理由…?は、どっちが速いのかみたいなくだらないことだった思うけど、まぁー、ノリックは人の話を聞かないから…。唯一、しんちゃん(伊藤真一・1997年WGP500ランキング5位)だけだったんじゃないかな、言うことを聞くのは。 ノリックは立派なレースの広報マンだった。ビップルームには、芸能人や若手実業家と呼ばれるような人、良くTVで見るような有名人がいて、そこでバイクのレーサーだって堂々と自分をアッピールしていた。だから、ノリックを通じてレースを知った人がたくさんいたと思う。トレーニングは多摩川の土手を走るとか、ちょっと古いなぁ。スポ根な感じだったけど、どんなに飲んでも、トレーニングは欠かさなかったように思う。