『虎に翼』寅子が設立に携わる“家庭裁判所”とは? 発足までの歴史と役割を解説
日本で家庭裁判所が発足したのは1949(昭和24)年
日本で家裁が発足したのは1949(昭和24)年1月1日。2024年は発足から75周年の節目であり、家裁の歩みを振り返るには絶好のタイミングだ。家裁は、まず法律(旧少年法)にその存在が記され、後から組織が整備された。家裁の開設には紆余曲折があった。GHQの通達で設置が求められた家裁は、少年審判所と家事審判所を合体して作られた。家事審判所は1948(昭和23)年にできたばかりの新しい組織で、裁判所の管轄。かたや少年審判所は司法省の行政組織で、同じ司法でも職務分掌をめぐって対立があった。 家裁設立には多くの人々が関わっている。その中で、キーパーソンと呼べる一人が「家庭裁判所の父」と呼ばれる初代最高裁家庭局長の宇田川潤四郎である。大陸帰りの裁判官である宇田川は、京都少年審判所で戦災孤児の処遇に積極的に取り組んだ。戦後、都市部には戦災孤児と浮浪児があふれ、食糧不足から少年の非行が後を絶たなかった。宇田川は、学生たちを集めて少年少女の健全育成を目的とするボランティアの「BBS運動」を軌道に乗せる。宇田川が掲げた「独立的」「民主的」「科学的」「教育的」「社会的」という家裁の5性格は、設立後の基本理念として浸透した。 アメリカの「ファミリー・コート(Family Court)」にならった家裁設立に尽力したのが「殿様判事」こと内藤頼博である。戦前に訪米して現地の裁判所を視察した内藤は、最高裁秘書課長として女性や少年少女の権利を尊重する新憲法の理念にかなった家裁設立を後押しする。そうして設置された家庭裁判所設立準備室に、民事局で法改正に携わる日本初の女性弁護士・三淵嘉子も所属することになった。 『虎に翼』で家裁設立に関わるメンバーは、史実をベースにしながら個性全開で物語に彩りを添えている。共通するのは新しい時代への期待に胸を高鳴らせていること。家裁の歩みを通して、現代につながる司法の息吹を感じてほしい。 参考 ・https://www.courts.go.jp ・清水聡『家庭裁判所物語』(日本評論社)
石河コウヘイ