一条天皇が「道長の甥」伊周の関白就任を阻んだ訳 道隆は我が子をどんどん出世させたものの
一条天皇からしても、後見である国母の詮子の意向は無視できない。前述したように、道隆は、妹の詮子を一条天皇の女院とすることで、自らの影響力を高めようとしたが、そのことが結果的には、息子・伊周の関白就任を遠ざけることとなった。 ■「内覧」の地位をフル活用する藤原道長 道隆が死去して17日後の4月27日、一条天皇は、道隆の弟で右大臣の藤原道兼を関白に任命する。しかし、すでに疫病に冒されていた道兼は5月8日、35歳でこの世を去ってしまう。
「七日関白」と呼ばれるように、道兼が政権を握ったのは数日のみだったが、その意味は大きかった。道隆から息子の伊周、ではなく、弟の道兼へといったん継承されたことで、その後は、弟の道長へという流れができたからだ。 とはいえ、このときまだ権大納言の道長は、内大臣の伊周より下位であり、いきなり関白にするのは難しい。また、一条天皇からすれば、伊周は妻・定子の兄でもある。母の意向が重要とはいえ、極端な人事を行うことへの抵抗もあったのかもしれない。
道長には「内覧」という地位が与えられることになった。内覧とは、関白に準じた役職で、天皇に奏上する文書を事前に読める役職となる。内覧の地位が置かれるのは、23年ぶりのことだったが、例外的に務めた人物がいる。それが伊周だ。 道隆は、自身が病に苦しみ、政務を行うのが難しくなると、「関白が病を患っている間、もっぱら内大臣に委ねる」として、一条天皇にも受け入れさせている。このときに、条件付きではあるが伊周が「内覧」に就いたが、父の死後には外されている。
つまり、道隆からすれば、病が重く死が近づくなかで、なんとか伊周の関白就任の道筋をつけておこうと考えたのだろう。「内覧」という20年以上置かれていなかった地位を引っ張り出して、息子に与えることになった。 ところが、今度は道長がその「内覧」という立場をフルに活用することになる。摂政も関白も置かないまま、道長は内覧の座を約20年、手放すことはなかった。 ■前代未聞の「一帝二后制」はなぜ生まれたのか? 道隆が自分の権力を保持するために行ったさまざまな企てが、なぜか道長への好アシストになっているのが、なんとも皮肉である。なかでも決定的なのは、道長が自分の娘・彰子を一条天皇の中宮としたことだろう。