一条天皇が「道長の甥」伊周の関白就任を阻んだ訳 道隆は我が子をどんどん出世させたものの
NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第17回は道長の兄・道隆と、その子供で道長のライバルだった伊周のエピソードを紹介する。 【写真】道隆が我が子の伊周のために行った企てが、なぜが道長への好アシストに。写真は道長が建立した法成寺跡。
著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。 ■強引に身内を出世させた道隆だったが… 手段を選ばなかった、という意味では、父の藤原兼家にも勝っていたかもしれない。兼家の長男にあたる藤原道隆のことだ。 兼家の死後、政権を握った道隆は、自分の身内をどんどん引き上げていく。円融天皇の中宮にあたる藤原遵子がいるにもかかわらず、道隆は遵子を皇后として、自身の娘である15歳の定子を一条天皇の中宮とした。
すでに皇后、皇太后、太皇太后が「中宮」と称されているなかで、4人目の中宮を強引に誕生させることとなった。藤原実資は日記『小右記』にて「皇后4人の例は聞いたことがない」(皇后4人の例、往古、聞かざる事なり)と記している。呆れる表情が目に浮かぶようだ。 道隆は、さらに落飾した妹の詮子を女院とし、一条天皇の後見としての役割を与えている。詮子には「東三条院」の女院号が贈られることとなった。あとは、自分の息子の伊周をできるだけ出世させておけば、自分にもしものことがあっても安泰だ。そんなふうに考えていたことだろう。
ところが、いつの時代も、権力者の強引なやり方はどこかでしっぺ返しがくるものだ。結果的には、そんな道隆の政権固めは裏目に出ることになる。 ■「出世おねだりモンスター」と化した藤原伊周 長徳元(995)年4月10日、道隆は43歳で死去。『栄花物語』に「水を飲みきこしめし、いみじう細らせ給い」とあるように、しきりに水を飲みたがったとある。酒の飲みすぎなどによって糖尿病が引き起こされて、死に至ったようだ。