一条天皇が「道長の甥」伊周の関白就任を阻んだ訳 道隆は我が子をどんどん出世させたものの
後継者として有力視されたのは、道隆の息子で内大臣の藤原伊周である。道隆は亡くなる1週間前の4月3日に関白を辞職。その翌日の4月4日に、伊周は「関白の随身兵仗を自分につけさせてください」と一条天皇に申し出ている。随身兵仗とは、関白の護衛を行いながら、その威厳を知らしめる存在だったが、それを自分につけてほしいというのだ。 内大臣の身でそんなことを言い出すのは、さすがに勇み足だったようだ。伊周ウォッチャーでもある実資は、もちろん『小右記』で、このことに触れている。
「前例がないことではないか。稀有だと言うべきことだ」 アホらしい、という声が聞こえてきそうだが、伊周が藤原詮子にまで働きかけると、さらに表現をエスカレートさせている。 「このことはきっと嘲笑されるだろう。ようやく顎が外れるほどのことだ」 伊周はというと、そんな周囲の冷たい目もなんのその、一条天皇の動きが鈍いと見るや、御前に参入して、自ら一条天皇に抗議する始末。父が病によってどうなるかわからないなか、精神的にも不安定だったのかもしれない。
このような伊周の暴走に、眉をひそめた公卿は、実資だけではなかっただろう。 道隆は伊周のためを思ってどんどん出世させたが、結果的には孤立を招いたといってよい。それでも、道隆は病床においてもなお、息子を思い、一条天皇に「伊周を関白にしていただきたい」と奏上しているのだから、どうしようもない。 注目すべきは、これに対して、一条天皇はきっぱりと関白の任命を拒否していることだ。 伊周への反発があちこちから起きていることは、一条天皇も感じていただろう。また、自身も要求がエスカレートするばかりの、道隆と伊周の親子にうんざりしていたのかもしれない。
そして、何よりも母の詮子が、伊周の関白就任を望まなかったのが、一条天皇の気持ちを固めたに違いない。詮子からすれば、伊周が関白になれば、その座は伊周の息子や弟に引き継がれていくのは明白であり、何のメリットもない。 詮子はかねてから、兄弟のなかで、弟の道長を可愛がっていた。道長が2人目の妻である源明子との縁談をまとめたのは、詮子の働きかけがあったともいわれている。詮子とすれば、道隆の次は道兼、その次は道長という絵を描いていたのだろう。