【連載】恋愛に終止符を打つことができるのか/三浦瑠麗氏連載「男と女のあいだ」#10 恋愛とその先
国際政治学者やコメンテーター、そしてエッセイストとしても幅広く活躍する三浦瑠麗氏によるエッセイ「男と女のあいだ」。夫と友人に戻り、「夫婦」について改めて思いをめぐらせるようになったご自身のプライベートや仕事、過去を下敷きに「夫婦」を紐解いてゆきます。連載第10回は、三浦氏にふと持ち寄られたお話から「恋愛をした先」に見える景色は何か、ご自身の見解をお届けします。 【写真】藍大島の着物に身を包み、落語を聴きに行く前にキャピトルバーにて 本人提供写真 ■#10 恋愛とその先 相手の真意を知ることが、必ずしも幸福をもたらしてくれるとは限らない。先日、或る女性がしみじみと言ったことがあった。交際相手が都合の良い時にしか連絡してこず、そして自分に暇や機会がある時には、まるで相手を急き立てるかのように必死に会おうとするのにいままで辛抱強く付き合ってきたが、よく考えてみればずいぶんと身勝手なことではないかと。 話を聴きながら、わたしはここ何年にも渡る彼女との会話を思い出していた。その度ごとにわたしとしては理不尽だという気持ちはあったのだけれど、恋をしている彼女の双眸(そうぼう)の輝きが愛おしくて、口を出そうとは思わなかった。そして、きょうこの瞬間に、彼女の「恋愛」は名実ともに終わったのだなと受け止めた。 その人は長年、そうやって一人の男性に振り回されてきたのだった。恋愛というのは、必要な時にスイッチを押せばライトが点いて機能するようにはできていない。相手との関係が一方的かつその場の不安の解消にとどまるならば、膳を与えられ空腹が満たされれば振り返ることもなく食事の席を立つように、その時々でしか相手のことを考えないだろう。その一椀が、自分の精神を満たすために与えられたものであると気づかない限り、相手のことを本当に大切に思いはしない。 彼女に限らず、一般的に、愛の存在が示されたと女性が感じる一つの分かりやすい形は「生存確認」だろう。己の安心を得るとともに、相手に聞くべきこと、気にかけるべきことについて配慮しているかどうか。前述の女性は、相手からの連絡がそうしたものを満たしておらず、必要な時にのみ、まるで机の抽斗(ひきだし)を開けるように自分の存在が求められるということを理解しかねて苦しんでいたのである。 女が求めている愛情の基本動作は、友情からさほど遠いものとは思われない。それなのに、友情ほどにも報われない関係になってしまうのはなぜだろうか。男性が友を自らの誠や信義を表する対象と思う一方で、恋人を己の欲望そのものと同一視してしまう癖を、何世紀にも渡って身に着けてきたからかもしれない。 男が恋人を抽斗の中に入れてしまうのは、自らの情動と、その対象である他者を分別できていないからだろう。父親は息子に己の欲望やその場の衝動に惑わされないように、と教える。男性たちが創り上げた古典作品の中では、望ましい魅惑的な女性はいつも彼らを破滅に導く者として描かれてきた。それは、要求に従わない聖人を殺しその首に接吻するサロメであり、激しい嫉妬のあまり逃亡中の友を匿っている男の隠れ家を暴き、結果、彼らを死に導いてしまうトスカである。それこそ、挙げだしたらきりがない。つまり、女性が自分の気を散らさないよう、女の度重なる要求には抗するように、と男は教えられるのである。 ■必要とされたい女、母性を求める男 たしかに、若い頃の男性の情動には気持ちというよりも身体的な欲動が先立つだろうから、自己規律を課すことには理由がないではない。ただ、男女に生物としての違いは残るとしても、両性が対等になった時代にこの教訓が似つかわしいとも思われない。あるいは、両者の綱引きのバランスは変わってきているというべきだろう。養われているわけでも庇護されているわけでもないのに、利己的な男性と付き合い続ける意味が女性にはないからだ。女が軽んじられたと思えば、関係は持続不可能である。 その時は突然にやってくる。懸命に繋がろうとして連絡し、心を込めて感情を事細かに表現し、彼への愛情を示し続けた後に、どんなきっかけでもいい、その人なしでやっていけるということに女性が気づいてしまえば。その途端に関係性は変わってしまう。女性は己の執着に気づく。愛していたと思ったものが、眠りを繰り返すことで脳内の記憶として定着し馴染ませていった、瞼(まぶた)の裏の残像に過ぎなかったことに漸(ようや)く気が付くのである。 女の献身は、「お前はこうであらねばならない」と繰り返し囁き続ける波の音に女性が耳を傾け、それをずっと聴いているのに似ている。自分と男とのあいだに存在する深い溝を見ずに目を瞑り、ずっと波打ち際を歩いていこうとする。女が会話しているのは、果たしてその人とだろうか、それとも自己との対話だったのだろうか。ふと気づくと男はいなくなっている。波だけが囁き続けている。実像としての男は、さざ波の音を聴きながら瞼の裏に結ばれたイメージとは異なる。 女は立ち止まる。そして辺りを見渡す。こうして独りで風になぶられる松林のざわめきを、早起き鳥の鳴き声を聴いている方が本当なのではないか、ということに気が付く。そこではじめて、女はひとりになる時間が、空間が重要であることに気づくのである。 男性的な言葉を選んで言えば、瞼の裏に結ばれた像は「解釈」である。世の中に対する解釈の一環として、恋人をある存在として「解釈」している。例えば、男性が定義する「最愛の妻」「魅惑的な恋人」というものは、解釈であって女性本人のことではない。同様に、女性にとっての解釈である「私の愛する人」というのも、男性本人のことではなかったのだろう。 わたしたちは複雑な生命体であり、外界からの干渉によって日々変化する生き物である。中でも脳内に蓄積された記憶は、事実の詰め合わせというより解釈の堆積(たいせき)としてわたしたち自身を形作っている。 だから、人間は変わるのだ。こうであらんとして思い定めつづけることで、その人格すら衣服ではなく肌のようになることがある。風貌も変わっていく。時折、20代のころの自分の写真を見ると、これはわたしではないという思いに取りつかれる。勿論わたしだったのだろうけれど、どこか人形の絵姿を見ているようで、よく知らないひと、という感覚である。漸く、40代半ばにして己を血肉として手にした気がするのは、成熟だけでなくその折々の自分というものがあるからだろう。 恋がはじめの性急さを失い、穏やかな関係へと変遷したころに、わたしたちは記憶と現実との齟齬(そご)に悩み始める。多くの女性は、男性と近しい関係となることで愛着が増し、情愛に発展するので、相手が落ち着くと、心身ともに自分が持ち出しになっているのではないかという不安に襲われがちだ。たしかに、男性は初期の興奮が落ち着くと相手に対する観察と関心が低下し、楽観的で落ち着いた関係を求めがちになる。 だが、そのときに彼女が目を背けているのは、自らも恋の終わりを迎えたという事実に他ならない。恋はつづく必要はない。終わってよいのである。むしろ、それを認め、パートナーに移行するならば、感謝や思いやり、あるいは普段の何気ない良き体験によって、すでに過去のものとなった記憶を補強し続けることが必要だ。 ◆ 恋の終わりに落ち着いて向き合うことが出来れば、愛情によって互いを思いやる関係を育むことはできる。そうでなければ、ほとんどの言動には意味などないのに意味づけを見出し、相手に何やかやと世話を焼き、いつしか手応えの乏しい相手の見せるひとつひとつの反応とその解釈に依存する精神生活を送るようになってしまう。若い頃の恋愛などはこの手の展開を辿りがちだ。「付き合う」という選択を両者がしている時点では、様々な点に関して相互諒解が成り立っていないのに、急にまるで伴侶のように振舞うため、齟齬や矛盾が生じることになる。 さらに、女性が「愛される者」として以外の自己表現を求めるようになると、男女が連れ添うことはまた別種の試練を伴うようになる。愛されるためだけにする努力が自然と減り、しかし、愛されることへの欲望は底に埋(うず)めたまま消えずに残る。「あなたの理想の女になりたい」と「ありのままの私を愛し尊重せよ」のあいだには懸隔(けんかく)があるが、その両者をいとも簡単に架橋してしまうのが「私は必要とされている」という認識である。 「必要とされること」を女はなかなか手放そうとはしない。本来、他者に必要とされることの喜びや生きがいは男女を問わないのだが、女の場合はそれが他者の外部視点の内面化と自己表現とを繋げるものとして使われるために、より複雑になる。 あなたはわたしを必要としているはず――既視感のある表現だ。そう、これは母性が子どもの段階的な自立によって試練を受けるとき、大多数の母親が味わう気持ちに他ならない。多くの母親は、そのような気持ちを抑圧して子どもの自立とともに関係性を遷移させた愛へと転換していこうとする。「あなたが立派に巣立ち、元気に活躍していることが私の喜びである」という風に。 ところが、血を分けた子どもに対する愛と異なり、男に対する愛はその人を愛することに必然性がない。母性愛は対象がそもそも選択的であるところにその特徴があり、相手が当然に愛し護るべき存在であると認識されない限り持続しない。だから、伴侶に愛され続けている、あるいは必要とされ感謝によって報いられていると感じられない限り、関係に満足することは難しい。 しかし、そのような本来選択的に発揮される母性と、女性特有の対人関係の柔軟性や機敏な反応、気遣いとを、多くの男性はなぜか混同し、取り違えてしまう。恋愛や結婚においてひどく相手を傷つけた時、あるいは強引に取り結んだ性的関係において、許してもらえる一線を踏み越えてしまったことになかなか気づかないのは、それゆえだろう。「自分が特別である」という主観と、「相手にとっても特別な存在である」という客観を峻別(しゅんべつ)できないのである。 多くの男性は周りの女性、あるいは一度も会ったことのない女性まで含めて、手当たり次第に女に母性を求めるのだが、それは女性からみると永遠の謎のようである。 母性は自身の母親から与えられるもの。幼児であったころのその人が嘗て母にしたように無条件で相手を愛することもなく、自然に他者から得られるはずがない。しかし、受容によってもたらされる心地良さ、という男性側の感覚が同一であるがために、その違いを峻別できず、つい判断を誤ってしまう。 それゆえに、母性の存在仮説によるバイアスが、ありとあらゆる女の仕草、メッセージの読み込みに付き纏うのである。女が与える親切には理由がある、つまり自分が彼女に受容されているからだ、と男性がすぐに思ってしまうのは、利他の視点がないからである。自己を中心におくものの見方からは、利他的な言動に出逢っても、「己の意思が通った」としてしか目の前の事象を理解しないのだから。 物事をさらに複雑にしているのは、女性の側にも他者を魅了しようとする傾向が少なからずあるからだ。すべての女性がそうする、と言いたいわけではない。「女性性」の中に、もともとそういう素質が含みこまれているという表現の方が正確だろう。他者に望まれることへの欲望、それによって命を輝かせたいと思うような衝動があれば、その素質が形成されやすくなる。 ■ただひたすらに恋に生きることができるのか ひたすら恋に生きようとしただけなのに、王党派と共和派の内戦にまで踏み込んでしまったトスカの激しい嫉妬と情熱は、彼女のファム・ファタール性を象徴している。恋人である画家、カラヴァドッシはナポレオン一派のアンジェロッティが幽閉中のサンタンジェロ城から脱獄したのを密かに匿うが、浮気を疑ったトスカはスカルピア警視総監の手による追跡があることを知らぬまま、自ら居場所を突き止めてしまう。 スカルピアははじめ、カヴァラドッシの拷問によってアンジェロッティが井戸の中に隠れていることをトスカから聞き出し、つづいてカヴァラドッシを助命する秘密の命令書を書くことと引き換えにトスカを犯そうとする。トスカは咄嗟に食事用ナイフでスカルピアを刺殺し、牢にいるカヴァラドッシに面会した上、「偽装銃殺」に立ち会う。空砲だと信じて疑わずに駆け寄ると、すでにカヴァラドッシは息絶えていた。ファルネーゼ宮殿ではスカルピアが殺されているのに気づいた追手がトスカを追う。彼女は悲嘆に狂いながらサンタンジェロの塁壁から身を投げて死ぬ。この上ない悲劇だが、至上に美しい。すべての主要な登場人物を死に至らしめるのは、彼女の情熱である。 脆弱性を認めた相手を捉え、己の望む道筋、「運命的な恋愛」を歩ませようとする影響力の発揮において、おそらく女は男よりも優れている。それゆえだろうか、「男性性」の中には手当たり次第に母性を求めに行く積極性だけでなく、好意を示されたと思うと、つい相手のことを好きになってしまうという受動的な素質も兼ね備わっていたりする。古から続く、「母性」や「魔性」をめぐる偏見は男の無力さの表明でもあり、そしてその大いなる力に対抗するための抵抗であり支配欲の発露でもある、というわけである。 だから、恋というのは選び取られて意図的に落ちるものであると同時に、状況依存的なものでもある。そういう二人が互いに相手を選び、道行(みちゆき)をするのだから。 トスカに限らず、古今東西の文学作品や演目で恋愛が成就し、昇華して行く先は死と決まっている。現実世界もそれでは困るので、あちらの世界とこちらの世界を行き来することのできるそうした演目が好まれるのは、そういうことだろう。心身の叫びを残したまま、生きてゆくわけにはいかない。そのような逸脱を取り締まり、タガをはめようとするのが社会であることを人々はちゃんと分かっている。だから、昼には不倫のために芸能界を干された女優のニュースを見て、まあ当然だと嘯(うそぶ)き、夜には道ならぬ恋を歌ったオペラの観客として涙を流す。 ◆ 先日、日本橋三井ホールで柳家喬太郎師匠のおせつ徳三郎を聴いたが、実に美しかった。様々なバリエーションがあるが、これはすっと手に手を取り合って大川に飲み込まれて心中する。その一瞬のあわいに、観客の声にならないため息が聴こえるようだった。余韻を残したまま黙ってエスカレーターを降りてゆくと、ややあって、娘が言う。あれはほんとにあった話っていうより、きっとおせつさんに一緒に死んでほしいと思った男の願望を描いた噺だわね。 時々極めて現実的なことを言うものだから、こちらも緊張が解けて笑えるのだが、たしかに、徳三郎が刀屋に駆け込んだときに思い定めていたのは、おせつを殺すということであった。恋というのは事程左様に危険なもので、落ち着きのある結婚などとは相性が悪いから、いったんは嵌まってもだんだん鎮めてゆくほかはないのだねという話などをした。 そうやって、わたしがどんなに娘に色々なことを伝えたくとも、おそらく人間にアプリオリ(先立って)に知識を与えることはできない。言葉による知識だけでは示されえないものが世の中にはあるからである。 ――大店のお嬢さんが手代といい仲になってしまい、親に引き裂かれていいつけ通り他の男と婚礼を挙げそうになるが、やはり無理、と花嫁衣裳のまま逃げだしたところ、報せを聞いて激昂し、婚礼に乱入して無理心中しようと刀を買いに行って店主に逆に説教された手代と橋で会って、あの世で一緒になろうと身を投げる。――「おせつ徳三郎」を一文で示せばこうなるが、それでは何もわかったことにならない。疑似にせよリアルにせよ、身体的な体験を欠いているからである。 問題は、死なずに恋が終わったその先である。