あの中田英寿が「おしゃべり」だった頃 マスコミと良好関係…目を輝かせ「人懐っこく、話好き」【コラム】
記者の呼びかけに嬉しそうに…「無口」の印象なかった若かりし頃
試合後、ミックスゾーンでのコメントが物足りなく、バスの前で中田を待った。真っ先に出てきた中田に「もう少し聞きたいのですが」と言うと、嬉しそうに立ち止まってくれた。「ポジションが中央になって、すごく生き生きと見えた」と伝えると「そうなんですよ。すごく楽しかったです」。そこから、話は止まらなかった。 平塚入り直後の中田に「無口」の印象はない。いい意味で「おしゃべり」。特にサッカーの話、戦術的な話は好きなように見えた。「中央に位置すれば視野が広くなる。サイドだと片側に限られますから。広い視野でプレーするのが好き」「マークは厳しくなるけれど、それを跳ね除ける楽しさもある」……。30年近く前だが、そんな内容だったと記憶している。 印象的だったのは、こちらの意見を求めてきたこと。思慮深いベテラン選手のように「どう見えました?」「うまく機能していました?」。矢継ぎ早に聞いてくる。草サッカーレベルの知識で一生懸命答えると、頷きながら「そうですよね」「そこなんですよ」。チームメイトが次々とバスに乗り込むのも気にせず、話は続いた。 勝手な話ではあるけれど、こちらも原稿の締め切り時間がある。話しかけておいて一方的に打ち切ることはできないと困っていると、バスの中から「お~いヒデ、みんな待ってるぞ」と先輩選手の声。「あっ、すみません」とバスに向かって叫ぶと、こちらに一礼をして、走り去っていった。 爽やかで、明るくて、賢く、人懐っこく、話好き。U-17日本代表でも、韮崎高でも、短時間しか話をしたことはなかったが、立ち話ながら初めてじっくり話を聞いて分かった。プレーはもちろんだが、その人間性も中田の魅力だった。 ベッチーニョが戻った次の試合は再びサイドに追いやられた。「真ん中でプレーしたいんだろうな」と思いながら平塚の試合を見ていると、いつのまにか「王様」と並ぶようになり、いつしかベッチーニョをサイドに置いて中央に立っていた。広い視野が、中田自身のためでなく、チームの武器になったのだ。 1996年には19歳でアトランタ五輪に出場。翌97年には20歳で日本代表に初めて招集された。代表入りが決まった直後の平塚の試合前「日本代表に選ばれました!」とロッカールームを歓喜する姿があったという。「普通の選手なんですよ、全然クールじゃない」と笑いながら教えてくれたのは、代表の同僚だった。 日本代表の中心として成長し、海を渡って活躍した。同時に、これまでのサッカー選手にはない新しい時代の「プロサッカー選手像」が出来上がっていった。マスコミとの仲もうまくいかなくなった。それでも、あの日、バスの前で目を輝かせて話していたのも、間違いなく中田英寿だった。 (文中敬称略) [著者プロフィール] 荻島弘一(おぎしま・ひろかず)/1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者として五輪競技を担当。サッカーは日本リーグ時代からJリーグ発足、日本代表などを取材する。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰。20年に同新聞社を退社。
荻島弘一/ Hirokazu Ogishima