フェンシングはなぜ日本の「お家芸」になったのか? 東京五輪金メダリストが語る強化の20年史
今夏に行なわれたパリ五輪のなかでも日本選手団の躍進が目立ったのが、合計5個のメダルを獲得したフェンシング。フェンシングが「国技」と言われるフランスでの奮闘は、多くの人の目を釘付けにした。 【フォトギャラリー】パリ五輪の旗手として話題に 江村美咲、パリの勇姿/女子フェンシング では、その躍進の理由はどこにあるのか。3年前の東京五輪男子エペ団体で金メダルを獲得した宇山賢(うやま・さとる)氏に、自身の選手としての経験を踏まえながら、フェンシング強化の歴史や大躍進を遂げられた理由を分析してもらった。 【日本フェンシングの歴史はフルーレ強化から始まった】 フェンシングはヨーロッパの決闘文化が発祥であるとされ、その後にスポーツへと変化を遂げてきた歴史があります。日本に初めてフェンシングが持ち込まれたのは1932年のことでした。フランス留学中にフェンシングを習得したという岩倉具清(いわくら・ともつな/華族、宮内省官僚。政治家・岩倉具視の義息)によって、日本でもその存在が知られることになりました。 ヨーロッパ各国と比較すると、フェンシングはまだまだ日本国内での歴史が浅いスポーツです。それでも、2008年の北京五輪で太田雄貴さんが銀メダルを獲得するさらに前から、フルーレに特化した選手育成プランが導入されることとなりました。 フェンシングには、フルーレ、エペ、サーブルと3種目があり、それぞれ有効面(突きや斬りが有効になる身体の部分)や攻撃権(どちらが優先か)の有無が異なります。 そのなかでも、有効面が胴のみに制限されていて攻撃権があるフルーレが、「剣の操作技術と剣先の精度に長けていて、海外選手との体格差も埋めやすい」という理由で日本人に合っているとされ、優先的に強化が進められていきました。
以前は国内試合において、フルーレの試合が圧倒的に多かったこと。そして国民スポーツ大会でフルーレだけが毎年競技が実施されている一方で、エペとサーブルは1年おきに開催されている点も、当時の強化策の名残です。 僕らが東京五輪でメダルを獲得したエペは、全身が有効面になるため、当時は「身長や腕のリーチに勝る海外勢に及ばないだろう」と考えられていました。また、パリ五輪の女子団体で日本勢初のメダルを獲得したサーブルも、日本人は「体格差に加えて瞬発的なパワーが劣るだろう」とされ、強化が後回しになりました。 【「行く」のではなく「呼ぶ」。海外指導者の招聘】 日本におけるフェンシングの強化が進んだ理由として、海外から積極的にコーチを招聘した点が挙げられます。これまでも"武者修行"という名目で一部の選手は海外に活動拠点を移すケースが見られましたが、金銭面などさまざまなハードルを乗り越えなければ実現しません。 そこで、選手たちが自ら海外に出向かなくとも、本場の技術を学ぶことができる環境を整えたことにより、競技力の底上げに繋がったと思います。また、外国人コーチが持つルートを駆使することによって、世界のトップを知る方々と触れ合う機会が増えるなど、非常に大きな効果があったと思っています。 日本に初めて招聘された外国人コーチは、2003年のオレグ・マツェイチュク氏(ウクライナ)でした。 同氏の担当種目はフルーレで、太田さんを筆頭とする日本人選手の強化や五輪メダル獲得に大きく貢献することになり、その後のエペ、サーブルの強化も、この成功モデルを参考にしながら進められていきました。 【HPSCによる競技力向上やハイパフォーマンス・サポート】 フェンシング競技でオリンピックを目指す拠点となっているのが、東京都北区西が丘に拠点を構える「ハイパフォーマンススポーツセンター(HPSC)」です。代表に選ばれた選手たちは、ここでさまざまなサポートを受けながら練習に励み、世界の舞台で活躍できるレベルへと成長していくこととなります。