アメリカでラーメンを割り入れた紙コップにお湯を注ぐ様子を見た『まんぷく』萬平のモデル・百福の頭に閃いたのは…<カップヌードル誕生の瞬間>
◆逆転の発想 最初の視察後、世界初のカップ麺の完成まで五年もかかりました。カップの大きさ、形状、素材を考えると、百福は夜も眠れません。枕元にサンプルを並べて、寝起きするたびに手に取って、縦、横、斜めから眺めていました。仁子だけでなく、宏基(次男)や明美らにも持たせてみて、一番持ちやすい形状を確かめるのでした。 百福は「私は三人に聞けば分かる」が口ぐせでした。 市場調査にお金をかけるのが嫌いで、何事も自分の目で確かめなければ納得できない性格だったのです。 カップの形状が決まってからも、その中にどうやって麺をおさめるかに苦労していました。麺が大きいとカップに入りません。小さいと底に落ちて輸送中にこわれます。なんとかぴったりと安定させる方法はないか。 ある晩、布団に横たわって考えていると、天井がぐるっと回りました。天地がひっくり返ったような感覚でした。その時にひらめきました。 「そうか、カップに麺を入れようとするからだめなんだ。麺を伏せておき、上からカップをかぶせればいい」 逆転の発想でした。やってみると、麺はカップの中間にしっかりと固定され、びくとも動かなくなりました。これが「麺の中間保持」の技術として実用新案登録されたのです。 百福は六十一歳を迎えていました。普通の人なら定年生活に入ってもおかしくない年齢です。しかし。 「人生に遅過ぎるということはない。六十歳、七十歳からでも、新しい挑戦はできる」という言葉の通り、六十歳を過ぎても新しい開発に熱中し、チキンラーメンに続く第二の発明を成し遂げたのです。
◆食は時代とともに変わる 1971(昭和46)年9月18日、東京新宿の伊勢丹百貨店でカップヌードルの発売を開始しました。一食百円です。 しかし、百福の意気込みに反して、評判は散々でした。 「屋外のレジャーには便利かもしれないが、しょせんキワモノ商品だ」「袋麺が二十五円で安売りされている時代に百円は高過ぎる」「立ったまま食べるとは日本人の良風美俗に反する」などと言われました。問屋からの注文はありません。 その年の11月、銀座三越前の歩行者天国で、試食販売をしました。長髪、ジーンズ、ミニスカート姿の若者たちは、最初は戸惑っていましたが、一人、二人と食べ始めると、たちまち、人だかりになりました。みんな、アメリカの若者と同じように立ったままで食べていました。その日だけで二万食が売れました。 「食は時代とともに変わる」 百福はそう確信したのです。 年が明けて、1972(昭和47)年2月、連合赤軍による浅間山荘事件が起きました。百福はテレビの中継を見ながら、あっと息をのみました。連合赤軍が立てこもる山荘を包囲していた警視庁の機動隊員が、雪の中でカップヌードルを食べているのです。機動隊員には近所の農家からおにぎりの炊き出しがありましたが、氷点下の気温のため、カチカチに凍って食べられません。 そこで、温かいカップヌードルが用意されたのです。その頃、カップヌードルはまだ一般の店頭には並ばず、屋外で活動することの多い陸上自衛隊や警視庁など限られたところに納入されているだけでした。 需要が爆発したのは、チキンラーメンの時と同じ、一本の電話からでした。 警視庁以外の県警や報道陣から、「すぐに送ってほしい」と連絡が入り、「あの食べ物はなんだ?」という一般からの問い合わせも殺到しました。社内は大騒ぎです。その日から、カップヌードルは火がついたように売れだしました。 浅間山荘事件の半年後、日清食品は東京、大阪、名古屋の各証券取引所第一部上場を果たしました。またカップヌードルはアメリカでも発売され、いよいよインスタントラーメンが「日本生まれの世界食」として広がる端緒となったのです。 ※本稿は、『チキンラーメンの女房 実録 安藤仁子』(安藤百福発明記念館編、中央公論新社刊)の一部を再編集したものです。
筒井之隆
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