24年ぶりに商社トップに返り咲いた三井物産…100年以上前から"センスある社員"を抜擢してきた社風の強み
■ライバルの三菱商事とは何もかも真逆、設立経緯の違い 財閥系総合商社の雄といえば、三井物産の他にも三菱商事がある。ところが、両社は設立の経緯も、社風も全く違う。 三菱商事は、1918(大正7)年に巨大コングロマリット・三菱合資会社(ごうしがいしゃ)の営業部を分離して設立された。営業部の前身は売炭(ばいたん)部といって、三菱の鉱業部門(のちの三菱鉱業、現・三菱マテリアル)が生産した鉱産物を売買する目的で設立された。 ちなみに、三井財閥では、三井物産が官営三池炭礦(たんこう)の石炭の販売で利益を上げていたので、三池炭礦が民間に払い下げられる際に競り落とした。三池炭礦はのちに三井鉱山(現・日本コークス工業)になっている。つまり、三菱ではメーカーが主で商社が従だったのだが、三井ではその逆なのである。 ■三菱ではメーカーが主で商社が従、三井はその反対 こうした関係は鉱山会社にとどまらない。三菱商事はあくまで三菱財閥の販売部門という色彩が濃かったが、三井物産は自らが商売を創造していって、その結果、三井財閥が拡大していった。 たとえば、三井物産が海外の有望技術の企業化として東洋レーヨン(現・東レ)が設立され、棉花の取り扱いは投機的な要素が強いと別会社にしたのが東洋棉花(総合商社のトーメンを経て、豊田通商に吸収合併)。貿易を行う関係上、船舶を保有し、その補修設備を持っていたのだが、戦時中に軍部から別会社化を要望されたらしく、三井船舶(現・商船三井)と玉造船所(三井造船を経て、現・三井E&Sグループ)を分離。また、海上保険の内製化として大正海上火災保険(三井海上火災保険を経て、現・三井住友海上火災保険)を設立した。 そんな訳だから、当然、物産と商事では人材の採用も教育、登用も異なっていた。1917(大正6)年に両社に願書を出した実業家・演出家の秦(はた)豊吉(とよきち)は、その違いを以下のように語っている。 「唯(ただ)大学生の口伝(くでん)として、三井物産は生き馬の目を抜くところだ。万事がすばしこくて、ぼんやりしている者は蹴落とされてしまう商売振りだが、三菱は万事が鷹揚(おうよう)で、おとなしくて、物事にあわてないで、どっしりしている、という伝説」(『三菱物語』)がある。