誰も知らない、日本軍守備隊の最高指揮官・栗林中将の「最期」…硫黄島の戦いの「大きな謎」
最高指揮官栗林中将の最期はいつ、どこで
2日目は、戦史に詳しいJYMA幹部から、提出したレポートの講評を受けた。講師役の幹部が手にした公的戦史『戦史叢書』は何千回めくったと思われるほど朽ちていた。1967年に発足した「学生慰霊団」を前身とし、長年にわたり戦没者遺骨の問題に真摯に向き合ってきたJYMAの年輪を感じた。 遺骨収集団員用の冊子「実施要領」は、日本戦没者遺骨収集推進協会からJYMAに送られていた。2日目の勉強会終了後、それが僕に手渡された。途中から勉強会に加わった赤木氏はすでに実施要領に目を通していたようで、今回の収集団が担当する捜索エリアが2ヵ所あることを教えてくれた。 「2ヵ所のうち1ヵ所は、栗林中将らが最後の総攻撃に出たエリアですよ。栗林中将のご遺骨も見つかればいいですね」 映画「硫黄島からの手紙」で、栗林中将は最後の総攻撃に加わった後、海岸付近で自決し、その地で守備隊兵士に埋葬されていた。しかし、実際は、いつ、どこで、どのような最期を遂げたのかはよく分かっておらず、硫黄島戦の謎の一つとなっている。もし栗林中将の遺骨や遺留品が見つかれば、それは歴史的発見となる。 もう一つの捜索箇所とはいったいどこなのか。それが記されている実施要領の地図のページを開いた僕は、思わず「あっ」と声を上げた。 それは滑走路下で発見され、僕が朝刊社会面で報じた、あの「地下壕マルイチ」だった。 つづく「「頭がそっくりない遺体が多い島なんだよ」…硫黄島に初上陸して目撃した「首なし兵士」の衝撃」では、硫黄島上陸翌日に始まった遺骨収集を衝撃レポートする。
酒井 聡平(北海道新聞記者)