もうやりたいことないよ、全部やりつくしたからーー作詞家・松本隆が振り返る、ヒットの系譜
下積みゼロで作詞家に
この日の撮影と取材は、松本がかつてはっぴいえんどとして出演した渋谷のロック喫茶、B.Y.Gで行った。地下のライブスペースに、松本が叩くドラムが響く。約半世紀を経ても、その演奏ははっぴいえんど時代を彷彿とさせる。 「ドラムはたぶん高1のときに買ってもらって、高2ぐらいで全国大会で優勝したんだよね。細野さんに会ってから『おまえは下手くそ』と言われて、『俺は下手なのかな?』と思ったぐらいで、ドラムで苦労した記憶がない(笑)」 その細野こそが、いつも書籍を手にしていた松本に作詞をするように言った人物だった。 「はっぴいえんどのときに詞を書き出したから、詩人としてのアマチュア時代もないんだよ(笑)。いきなり『ゆでめん』(アルバム『はっぴいえんど』の通称)をつくって、『風街ろまん』をつくって。解散したあと、どうやって食おうかと思って、作詞家になろうかなと思ってさ。他人のために仕事として初めて書いたのが、チューリップの『夏色のおもいで』(1973年)とアグネス・チャンの『ポケットいっぱいの秘密』(1974年)。2曲ともヒットしてくれたから、また下積みゼロだった(笑)。仕事をくれた知り合いには感謝しかない」 プロデュース業にも進出し、1973年から1974年にかけて数々の名盤を生み出したものの、その後しばらくの間、プロデュース業はやめることになった。 「僕の同級生が作ったレーベルが、プロデュース料をくれなかった(笑)。プロデューサーという職業は日本にはまだ根づいてなかったんだ。作詞家っていうのはすでに認知された職業だったから、ヒットさえすれば食えるわけで、その選択はしたよね。ドラムもそのときにやめた。細野さんがYMOで大ヒットしたときに歌謡曲に引きずりこんだんだけど、一緒にテクノ歌謡をつくりながら、『松本、いいときにドラムやめたな』って褒められたよ(笑)」
松本は、「毛細血管まで、自分がきちっとコントロールできてないと気に入らない面がある」と語るほどの完璧主義者だ。だからこそ、ロックやポップスのシーンで活躍していた仲間である細野や松任谷由実などを歌謡曲の世界へ招き入れた。太田裕美や松田聖子のプロジェクトに長く関わることで、作詞家としてだけでなく、再びプロデューサーとして新しい音楽シーンを牽引することとなる。 「力っていうのは、同じ方向を向くと加算されて倍になるわけ。ところが、作詞家と作曲家が逆の方向を向くと半分になってしまう。だから、自分と同じ方向に向ける作曲家を連れてくるのが一番手っ取り早い。『お金を払ってやるから、俺の言うこと聞け』っていうタイプのプロデューサーが多いけど、僕はそれを愛でやったんだ。だから、仕事も愛でできたんだよ。愛があるから、みんなお返しで愛してくれる、みたいな。それははっぴいえんどのときから、ずっとそうだった。あんなに才能ある人たちが周りに集まってくれたのは、きっとそういうことなんだろうなって思う」 --- 松本隆(まつもと・たかし) 1949年、東京都生まれの作詞家/ミュージシャン。中学3年の時にドラムを始める。慶応大学在学中の69年に細野晴臣・大滝詠一・鈴木茂とロックバンド「はっぴいえんど」を結成し、ドラムと作詞を担当。72年のはっぴいえんど解散後、作詞家へ転身。75年、太田裕美「木綿のハンカチーフ」のヒットにより注目を集める。81年、寺尾聰の「ルビーの指環」が『第23回日本レコード大賞』を受賞。数多くのヒット作品を手がけ、作詞家として2000曲以上を提供。作詞活動50周年を迎えた今年、トリビュートアルバム『風街に連れてって!』をリリースした。