「ふざけるのもいい加減にしろ」…辛口解説「北の富士勝昭」氏が記者を怒鳴りつけた瞬間(小林信也)
恩返し
佐田の山との初対決は14日目。得意の左を差して北の富士が一気に寄った。佐田の山がうっちゃって物言いがつく。協議の結果は「取り直し」。土俵下で北の富士は弱りきっていた。 「悪い夢を見ているようだった。それでなくても(佐田の山戦の)土俵に上がるのは嫌だったのです」と、NHKの相撲番組で回想している。取り直しの一番でも北の富士が左を差して一気に寄った。土俵際、またも佐田の山が突き落としたが軍配は北の富士に上がった。北の富士はそのまま14勝1敗で初賜杯を抱いた。 「とても優勝する力はなかったと思います。何かが後押ししてくれたと思うしかないですね」(同番組) 相撲界には「恩返し」という言葉がある。厳しく指導してくれた先輩力士に本場所で勝つことを意味する。北の富士は佐田の山に勝って「恩返し」をした。この時の話を本人から直接聞いたサンケイスポーツの奥村展也が同紙に書いている。 〈「取組後に(佐田の山と)花道ですれ違ったのよ。『おめでとう』といっていただいたんです。聞き取れないくらい小さい声で。それは、うれしかったなぁ」〉(2023年3月16日) ところが、この優勝を境に低迷する。部屋頭になった解放感からか、毎晩のように忙しく夜の街に通った。翌場所は5勝10敗、7月場所も7勝8敗。その後2年間、10勝ラインを行き来する成績が続いた。 変わったのは69年の夏過ぎだ。入門前からの一番の後援者が死の床に伏し、北の富士の横綱昇進が見たいと懇請されて目が覚めた。 9月場所は12勝で準優勝、11月場所は13勝で2回目の優勝。ここで北の富士を奮起させる出来事が起きた。協会は横綱審議委員会に北の富士の横綱昇進を諮問。しかし、横審は8人の委員全員の反対で否決したのだ。2場所前の成績が悪い(9勝)、11月場所14日目(麒麟児戦)の相撲内容が悪い、「もうひと場所、様子を見るべきだ」と。大甘だった大関昇進時とは対照的な厳しい通告。それからの数週間が、北の富士2度目の覚醒の日々だった。 場所後の九州巡業にすべて参加。大横綱・大鵬が目を見張るほどの稽古ぶりだった。そして70年1月場所。大鵬の休場で横綱不在の中、13勝同士で大関・玉乃島との優勝決定戦を制して賜杯を手にした。今度は全員一致で、玉乃島との同時横綱昇進が決まった。