「ホモ・ヒストリクスは年を数える」(11)~キリスト紀年を表す造語『西暦』~ 脱宗教化による文化移入こそ明治日本の英知
西暦という用語は日本発オリジナル
何度も述べてきたが、この第3シリーズの結論として言えるのは、「西暦という用語は、それが本来意味するはずの「西洋の暦」の省略表記ではない。キリスト教紀年法(Christian chronology)を表記するために、明治中期に新たに作られた造語である」ということだ。 日本では、グレゴリオ暦の導入により、1年を365日とし、それを、月の満ち欠けを無視して、12カ月に分割し、1カ月の長さを1月・3月・5月・7月・8月・10月・12月を31日、4月・6月・9月・11月を30日、2月は28日と設定した。4年に一度2月29日を設けることで、その年を閏年とし1年を366日とした。現在でも行われている、世界共通の暦である。 これは、日本人が独自に作成したものではない。すでにグレゴリオ暦としてキリスト教圏で使用されていたものを、そのまま導入しただけである。(ちなみに、このグレゴリオ暦を制定したグレゴリオ13世こそ、実は、日本の天正遣欧少年使節が1585年に謁見したローマ教皇だ) この太陽暦の導入により、時間は、不定時法(日の出と日の入の間の日中を6等分し、夜中を6等分する方法。冬と夏では6等分の間隔が異なる)から、現在のように季節に関係なく一日を24等分する定時法へと変更された。 そして、ヤヌス月の第1日を、1月1日とし、年初にした。それまで日本では年初の月は正月と呼ばれていた。太陽暦は正月という名称を使わず、1月という別の名称に変更し、表現に微妙な差異をつけることで、それまで使用されていた暦(天保暦)とは別の暦として、太陽暦の定着を図ったのである。 つまり、明治政府はそれまで使用されてきた天保暦を否定したり、使用禁止にしたりはしなかった。伝統的な暦との共存を図ることで、人々の生活上の不安を取り除いたといえる。1873年の太陽暦にも、旧暦は併記されており、これは1909年まで続いた。(暦に関しては、国立天文台の暦計算室ホームページに詳細な情報が掲載されている) キリスト紀元を示す表記としては、西洋紀元、西紀、西暦紀元、西暦等々が併用されてきたが、1950年代以降、西紀ではなく、西暦がもっぱらキリスト紀年を指す用語として使用されるようになった。これまで説明してきたように、日本語の西暦は紀年表記のために造語された用語であるが、本来の暦の意味である月日の表記にも拡大使用できたため、たいへん重宝された表記であった。 和暦に対応して西暦が使用されたのだという人がいるが、どうもそうではないようだ。むしろ順序は逆で、和暦は1990年頃以降、西暦に対応して造語された用語のようである。西暦が暦ではなくキリスト紀年を意味するのに対応して、和暦も日本の伝統的な暦ではなく、元号紀年を意味する用語として使用されているからである。 西暦に収れんされていったプロセスについては、まだまだ多くの疑問が残されているので、今後も調査を進めていきたいと考えている。(第3シリーズ・終) 著者紹介:佐藤正幸(さとう・まさゆき)1946年甲府市生。1970年慶應義塾大学経済学部卒。同大学大学院及びケンブリッジ大学大学院で哲学と歴史を専攻。山梨大学教育学部教授などを経て、現在、山梨大学名誉教授。2005~2010年には、President of the International Commission for the History and Theory of Historiography(国際歴史学史及歴史理論学会(ICHTH)会長)を務めた。主著に『歴史認識の時空』(知泉書館、2004)、『世界史における時間』(世界史リブレット、山川出版社、2009)、共編著:The Oxford History of Historical Writing: Volume 3: 1400-1800,(Oxford University Press, 2012)など。