「一茂指名」“ナガシマ愛”貫き続けた杉浦忠…数々のドラマ生んできたドラフト会議/寺尾で候
<寺尾で候> 日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。 ◇ ◇ ◇ 今年のドラフト会議は「60回目」の区切りだった。1965年の巨人堀内恒夫(甲府商)、阪神藤田平(市和歌山商)、阪急長池徳士(法大)、近鉄鈴木啓二(育成)、らが第一期生。「昭和」「平成」「令和」と時代をまたいできた。 ドラフト制度のルールも変遷した。第1回は、各球団がコミッショナー事務局に30人以内の希望選手を提出し、そこから順次獲得していくシステムだった。それ以前は「自由競争」だったが、契約金の高騰が問題になった。 その後は抽選で指名順を決めて選手を選択していく「指名順抽選」に改正。転機になった78年から「入札方式」が導入された。「逆指名」「自由枠」「希望枠」などめまぐるしく変更されていく。 08年から高校と大学・社会人が分離されていたのが一括ドラフト制になった。ドラフト史には「職業選択の自由」といった権利が論点にもなった。あまたのドラマは“クジ”によって生まれてきたのは事実だ。 南海ホークス担当で駆け出し記者だった87年の“目玉”は長嶋一茂(立大)だった。監督の杉浦忠と父・茂雄は、立大の同級生で固い友情で結ばれていた。杉浦は早くから「長嶋(茂雄)と直接交渉する」と一茂指名を公言していた。 ある日、当時の後楽園球場のレストラン前で2人がばったりと顔を合わせた際も、杉浦が番記者の前で「おい、シゲ。息子を指名するから」と声をかけると、長嶋は流し目でうなずいた。ただこれも“あうんの呼吸”だった。 南海は一茂を指名すると見せかけながら、立浪和義(PL)に動いた。それに西の伝統球団だった南海だが、弱小で、観客動員も落ち込み、球団経営が四苦八苦。杉浦はあえて「一茂指名」を駆け引きに、少しでも人気回復に努めようとしたのだ。 そのうち我々、番記者も「あの“お坊ちゃま”が貧乏球団にくるわけがない」とこれが南海の作戦であることにうすうす気付く。もちろん親友の茂雄には早くから知らされていたに違いない。それでも杉浦は“ナガシマ愛”を貫いた。 実際、翌88年に南海はダイエーに身売りすることになる。伝説のサブマリで「ミスターホークス」、“球界の紳士”だった杉浦の涙ぐましい話題作りに、こちらもわざと幻の「南海・長嶋一茂」を掲載し続けたものだ。 結局、動向が注目された巨人は指名を回避し、一茂は大洋(現DeNA)との競合の末にヤクルト入り。そして、一茂でなく立浪を指名した南海は、中日にクジで敗れ、吉田豊彦(ホンダ熊本)のドラフト1指名に踏み切るのだ。 涙あり、笑いあり。ドラフトには悲喜こもごもがついて回る。在京希望の阿波野秀幸(亜大)が近鉄入り、史上最多8球団が競合した野茂英雄(新日鉄堺)は名将仰木彬に導かれた。92年阪神監督だった中村勝広が、虎ファンだった松井秀喜(星陵)を外した瞬間の苦々しい表情は忘れられない。 古くは江川卓(法大)から、桑田真澄、清原和博(PL)の「KK」、ダルビッシュ有(東北)、田中将大(駒大苫小牧)、斉藤佑樹(早大)、藤浪晋太郎(大阪桐蔭)、大谷翔平(花巻東)、菅野智之(東海大)、清宮幸太郎(早実)、根尾昂(大阪桐蔭)ら主役を演じてきた。 今ドラフト取材で足を運んだのは、金沢(石川)の超高校級ショート斉藤大翔のもとだ。西武が1位で宗山塁(明大)、石塚裕惺(花咲徳栄)を外しての指名になった。地元の福祉関係者からは、能登半島地震、豪雨からの復興は足どりが遅いと聞かされる。 斉藤の父・哲也、母・有香は「夢のようです」と口をそろえて感激していた。少しでも明るい話題を地元北陸に届けてくれるスター誕生を期待しながら、オジサン記者は夜道を帰路に就くのだった。(敬称略)