「欠点を気にしてばかりいる人」に対して「毒舌な哲学者」が言い放った「人生の教え」
現代社会は、とにかく生きづらい。そして運命は残酷だ。生きていくということは、なんて苦しいのだろう。 【写真】「欠点を気にしてばかりいる人」に対して毒舌な哲学者が言い放った人生の教え 「苦しみに満ちた人生を、いかに生きるべきか」ーーこの問題に真剣に取り組んだのが、19世紀の哲学者・ショーペンハウアー。 哲学者の梅田孝太氏が、「人生の悩みに効く哲学」をわかりやすく解説します。 ※本記事は梅田孝太『ショーペンハウアー』(講談社現代新書、2022年)から抜粋・編集したものです。
ショーペンハウアー「心理学的覚え書き」
次に、「心理学的覚え書き」から引用しよう。 ねらってそうしたわけでもないのに的を射ていることに、ヨーロッパのあらゆる言語で、個人を表すのにペルゾン(Person)という語が用いられる、ということがある。 というのもペルソナ(persona)はもともと俳優の仮面という意味であり、いかなる者もあるがままの自分を示すことはなく、むしろ誰でも仮面をつけて役を演じているものだからだ。 総じて社会生活の全体はたえず喜劇の上演である。間抜けな者たちはそれを大いに気に入っているが、中身のある者たちは、そのために社会生活などばかばかしくなるのである(「心理学的覚え書き」第2巻第26章第315節、邦訳209頁)。 偉大で抜きんでた性質の者たちは、自分の欠点や弱点を自ら平気で認めたり、見せようとしたりする。彼らはそうすることで弱点が帳消しになる、あるいはそうした弱点が彼らの恥になるどころか、むしろ弱点を栄誉に変えることになるとさえ考えているのだ。 とりわけこのことが事実そのとおりであるのは、欠点がまさに彼らの偉大な性質と結びついている場合である。つまり欠点がその不可欠の条件になっている場合で、〔…〕ジョルジュ・サンドが言っているとおり、「だれでも自分の徳にふさわしい欠点を持っている」ものなのだ(「心理学的覚え書き」『余録と補遺』第2巻第26章第342節、邦訳232頁以下)。
欠点は隠すよりも見せたほうがいい
箴言家としてのショーペンハウアーは、わたしたちの心痛のもとになっている思い込みを短く鋭い言葉の一突きで雲散霧消させ、肩の力を抜いて生きることを教えてくれる。 たとえば、最初のアフォリズムで念頭に置かれているのは、人づきあいに悩んでいるひとのことだ。ショーペンハウアーによれば、人づきあいなどそもそも仮面をつけた化かしあいにほかならないのだから、そんなことを真剣に悩む必要などないのだという。 あるいは、2つ目の引用で念頭に置かれているのは、自分の弱点や欠点を気にして、それを隠そうとばかりする人のことだ。 そうした人は、そもそも自分のことを積極的に理解しておらず、欠点がないことを自分のとりえだと思っている。しかし、欠点があるということは、むしろ美徳の持ち主の証なのかもしれない。過度に憶病な者は危機察知能力に優れているのかもしれないし、傷つきやすく繊細な者は人一倍他人に優しくできる可能性を持っている。 そして、ショーペンハウアーによれば、たとえそうした長所を自覚できていなくとも、欠点は隠すよりも見せたほうがよいのだという。自分の欠点を認められる人は、その程度の欠点では自分の真の姿は傷つかないのだということを周りの人に示すことができるからだ。 さらに連載記事<ほとんどの人が勘違いしている、「幸福な人生」と「不幸な人生」を分ける「シンプルな答え」>では、欲望にまみれた世界を生きていくための「苦悩に打ち勝つ哲学」をわかりやすく解説しています。ぜひご覧ください。
梅田 孝太