<センバツ・平成の名場面>ラッキーゾーン撤去、金属バットきっかけに 第64回 センバツ平成の名場面
甲子園名物の一つだったラッキーゾーン。打撃技術の向上やボール、バットの改良により本塁打が量産され、現在は撤去されている。撤去後、最初の大会となった1992(平成4)年の第64回大会は両翼が5メートル広くなり、本塁打は前年の18本からランニング本塁打1本を含む7本に激減した。 阪神甲子園球場のラッキーゾーンは、プロ野球観戦の魅力であるホームランを増やすため、47(昭和22)年に設けられた。外野フェンス内側のフィールドに、左右両翼から中堅へ柵を設置することで、フェンスと柵の間にできる空間がラッキーゾーンだ。そこに打球が直接入っても本塁打とした。 高校野球では74(昭和49)年夏の甲子園から金属製バットが登場し、本塁打が増え出した。日本高校野球連盟は球場と阪神球団にラッキーゾーンの撤去を提案。91(平成3)年秋に撤去が決まった。 第64回大会で甲子園の広さをものともしなかったのが、星稜(石川)の松井秀喜内野手(元大リーグ・ヤンキースなど)。開幕試合となった1回戦の宮古(岩手)戦での2打席連続を含め3本塁打を放ち、個人1大会通算最多本塁打記録に並んだ。その強打ぶりは92年夏、明徳義塾(高知)戦で5打席連続敬遠という「事件」を引き起こした。