「沖縄が受けた傷と事実は誰かに伝えなきゃならない…」宮沢和史が『島唄』を歌った日
◇THE BOOM解散と音楽活動引退の裏にあった土壇場 日本の音楽界で確固たる地位を築いていたTHE BOOMは、2014年に解散する。その理由にあるのは、宮沢を襲った人生の土壇場だ。 「2000年代に入って首のヘルニアを患ったんです。神経に骨が当たると苦痛なんですけど、そういう発作が年に2回ぐらい起こるようになった。1回の発作のたびに10回ぐらいマッサージに行くんですけど、半年後にまた発作が起こる、みたいな体調がずっと続いていました。 2013年になると、とても歌どころじゃなくなってしまって、2014年にバンドを解散しました。で、“一人でやっていくか”とも思ったけど、首はさらに悪くなっていった。それで一度、2016年に音楽活動の引退を発表しました。ギターをしまい、マイクも置いて、歌をやめたんです。 その引退発表から2年間ぐらいはブラブラして、一人の作業に没頭していました。毎日プールに行って水の中で歩いたり、図書館に行って勉強したり、町の床屋に行って坊主頭にしてもらったり(笑)。 音楽はまったく聴いていませんでした。小学生の頃にギターを買って歌い始めてましたから、歌のない生活は自分にとって初めての体験です。やっぱり、歌っているから存在意義のあった自分が、その杖をなくすと“俺、なんのために生きてるんだろう?”みたいな自問自答になってきて、精神的にどんどん落ちていきました。 他人の言ってることが全て正しく聞こえたり、自分の思っていることがすべて間違って思えたり。“これからの人生、どうなってくのかな?”という土壇場でしたね」 しかし、引退を発表したはずの宮沢の元へ「うちのイベントで歌っていただけませんか?」というオファーが止むことはなかった。 「最初は“もう、やめました”と断ってたんです。だけど、今までだったら事務所が断っていたような、地域の小さなお祭りからの出演依頼に、ふと“行ってみようかな”と応えたら、なんか楽しかったんです。そこで、“あ、音楽を始めた頃って、こんな気分だったなあ”って。 だから、もう1回人生をやり直す、と言ったらネガティブに聞こえるけど、組み立て直せるのは土壇場を踏んだからですね。本当はTHE BOOMでずっとやっていきたかったですけど、これはこれで運命なんだろうなと受け入れて。 今はもう一人でマネージャーも付けず、やりたい音楽をやってる感じです。僕一人だけなので“スタッフをちゃんと食わしていかないと”という心配もないし、自分が生活できるくらいのペースでやれればいいわけだから。 だから、やりたいオファーだったらやるし、やりたくないものはやらないし。自分で自分の人生を選択できる今は気が楽です」 ◇俺のことは知らなくていい 「島唄」を歌ってくれたら 人生の土壇場を乗り越えた宮沢が迎えた35周年。4月24日には、35周年アルバム『~35~』をリリースした。 記念すべき周年を迎えた今、社会に目を向けるとロシアによるウクライナへの軍事侵攻が世界を騒がし、まさに混沌とした時代だ。 だからこそ、改めて「島唄」の意義を再認識する。世界で何かが起こるたびに「島唄」は生まれ変わり、意義を増していく。 大ヒットした曲を歌い続けることをイヤがるミュージシャンもいるだろう。きっと、宮沢は「島唄」を歌うことをこれからも望まれていく。本人は、それをどう思っているのだろうか? 「もちろん、『島唄』を求められることをイヤに思った時期もなくはないです。自分が変わっていく段階で、過去の自分を封印したいときってあるじゃないですか? ラテン音楽やブラジル音楽に傾倒しているとき、“どうしても、今回のツアーに『島唄』はそぐわないな”と思うこともありました。 だけど、あるときに気づいたんですね。“俺、島唄を繰り返しで歌ったことは1回もなかった”って。1回作ったものを同じように演奏して歌い、拍手が来る……その繰り返しがプロの仕事なんですが、『島唄』に関しては毎回、必ず生まれ変わっているんですね。新曲みたいな感覚なんです。 今まで、いろいろな方法でこの曲を歌ってきて、別に俺が歌わなくても誰が歌ってもいいんです。もう、俺が作った曲だと知らないで歌っている人もいっぱいいると思います。小さい子たちのなかには、“この曲を作ったのは死んだ人だろう”と思ってる子もいるだろうしね(笑)。 それはもう、ミュージシャン冥利に尽きますよ。別に俺のことなんて知らなくても、歌を歌ってくれたら、それが一番うれしいんです」 (取材:寺西ジャジューカ)
NewsCrunch編集部