「沖縄が受けた傷と事実は誰かに伝えなきゃならない…」宮沢和史が『島唄』を歌った日
◇沖縄からの絶賛と数パーセントの糾弾 アルバム収録曲だった「島唄」は、宮沢の「沖縄の人に恩返したい」という想いから、沖縄だけで発売される限定シングルになった。そして、その後「全国で発売してほしい」という声がレコード会社に殺到、「島唄(オリジナル・ヴァージョン)」として1993年に全国リリースされた。 宮沢の内面では、まさに思春期と呼ぶべき大きな変化が起こっていたが、それを知らないファンたちは、バンドの音楽性の尋常ではない変わりように驚いたはずである。 「ファンのなかには“なんでそっち行っちゃうの?”と離れていった人もいましたけど、それはしょうがないです。その代わり、新しくついてきてくれた人もいっぱいいました」 なにしろ、150万枚の大ヒットだ。それまで日本のロック / ポップスばかり浴びていたリスナーにとって、「島唄」は新鮮な衝撃だった。 そういえば、当時の筆者は「島唄」という曲は、もともと沖縄にあった民謡と思い込んでいた。違う。もちろん、宮沢が作詞・作曲を手掛けた曲だ。山梨出身の彼がこんな曲を作ったのだから、ファンからすると大きな驚きだった。 ところで、当時の沖縄県民の「島唄」に対する反応は、どんなものだったのだろうか? 「9割以上の人は大歓迎でした。“よくやってくれた”“本当は沖縄の人がやるべきなのに、あんたがやってくれてありがとう”っていう人が多かったです。ただ、一部にはあんまり快く思わない人もいました。ロックバンドが三線を持つことが不愉快だし、琉球音階を使うことも不愉快だと」 また、当時の沖縄は「沖縄民謡を総称して『島唄』と呼んでいこう」という流れが強い時代だった。 「ジャズ調の曲を作って、『ジャズ』って曲名をつけちゃうようなもんだから(笑)。それには抵抗があるという人が、特に音楽関係者に多かったですね。そのなかには糾弾する方もいたし、大和のほうからもいろいろ言われたり。最初から“そういう声もあるだろうな”と覚悟して発表したつもりだったんです。ただ、まさかヒットするとは思わなかった。 ヒットをすると“ありがとう”というポジティブな声は何倍にも膨らみますけど、その一方で数パーセントだった批判の数も、分母が大きくなってものすごい数になりました。そこは予想できなかったですね」 ◇ラブソングに見せかけて沖縄戦の悲劇を伝える しかし、そんな声もいつしか消えていった。喜納昌吉をはじめとした音楽家たちは、宮沢の挑戦を歓迎し、曲に込められた彼の想いは沖縄のうるさ型たちを納得させていったのだ。 理由がある。「島唄」といえば、多くの人は恋愛の曲という印象を抱いているはずだ。じつは、この曲の歌詞はダブルミーニングになっている。 「島唄」は、「でいごの花が咲き 風を呼び 嵐が来た」というフレーズから始まる。 「『でいご』という沖縄県の花がたくさん咲く年は、台風が多いっていう言い伝えがあるんですね。で、1945年の3月にはもしかしたらでいごがたくさん咲き、アメリカの艦砲射撃……当時は“鉄の暴風”と言われたんですけど、それが沖縄を襲ったんじゃないか。そんなイメージから、この歌詞を着想したんです」 「くり返す悲しみは 島渡る波のよう」という歌詞にも、裏の意味が込められている。 「もともと、琉球国は中国との冊封体制で成り立っていました。中国に認められて国として存続できたということですね。その後、今度は薩摩藩が1609年に侵攻してきて、両方(中国と徳川幕府)の支配に陥るんです。 そして、沖縄戦に負けたら今度はアメリカになった。道は右と左を変えさせられ、お金はドルになった。1972年になるとまた日本に戻されたが、基地は残っている。要するに、近隣の大国の帝国主義に常に飲み込まれている沖縄の姿は『島を渡る波のようだね』ということなんですね」 最後に、「ウージの森であなたと出会い ウージの下で千代にさよなら」という歌詞について。 「沖縄では、地下壕(防空壕)を『ガマ』って言いますけど、みんなで地下壕に避難し、そこで集団自決したり、または全員が助かったり……運命が分かれたんです。 サトウキビ畑の上で出会い、愛し合った僕ら幼馴染が、どうして地下壕の下で自決しなきゃいけないのか? そんな想いを込めて『さよなら』という言葉を選びました。一つひとつ、そういう裏の意味をつけたのが『島唄』の歌詞なんです」 沖縄に今も残る傷跡を多くの人に伝えたい。そう思っていたはずの宮沢だが、沖縄の現実をストレートに曲に反映させるやり方は選ばなかった。 「『島唄』が発売されたのは、バブルが終わる頃でした。世の中はまだお祭り騒ぎで、夢を見ているような感じだった。そんな時代に僕は沖縄戦の悲劇を知って、“今、これを伝えないといけない!”と思ったんです。 でも、バブルの頃に戦争の話をしても“うるせえ!”って誰も耳を貸してくれないだろうし、“今は楽しいんだから余計なこと言うなよ”と言われるだろうし。拡声器でシュプレヒコールを叫ぶような音楽だと、誰にも刺さらないということは薄々わかっていました。 だったら、ラブソングに見せかけて、一行一行に全部違う意味を含ませる。それを長くずっと歌い続ければ、ボディブローみたいに効いていき、いつしか俺のメッセージが伝わるだろうなって。ちょっと遠回りなやり方をしたということですね」