阪神淡路大震災20年・鉄骨むき出しスタジオから発信 ── 岩崎和夫アナ「夢中で伝えた」
青春ラジメニア・岩崎和夫アナウンサー。阪神淡路大震災を振り返る THE PAGE大阪
「あの日はちょうど火曜日で休みやったんです。けど、ものすごい揺れがきて...」──。1995年1月17日、ラジオ関西「青春ラジメニア」パーソナリティでおなじみの岩崎和夫アナウンサー(62)は、ちょうど神戸市須磨区の団地で就寝していた。そこへ突然襲ってきた大地震。すぐさま飛び起き、当時務めていた神戸市にある同局へ駆けつけた。しかし、その途中で見た倒壊した建物の数々。一部崩れていたスタジオの中で、発生から約2日間、情報を夢中で伝え続けた。
電話で情報聞いてきたリスナーに逆取材して状況伝えた
20年前、ラジオ関西は神戸市須磨区に本社を構えていた。岩崎アナが自宅から同社へ車で到着した時、駐車場が隆起していて車を止めるのも大変なことだった。震災発生から約50分後の午前6時半ごろ、スタジオへ飛び込んだが、ガラスは割れ壁は崩れ、鉄骨がむき出しになっていた。 「最初は東海地震の余波と思いながら駆けつけたものの、ビルの倒壊などを見てこの辺が震源と確信した。ラジオから音は聞こえず、会社へ行ったらスタジオまで崩れているなんて想像もできなかった」。しかし、放送は再開。岩崎アナは朝の番組担当者とともにスタジオへ入り、来る途中の状況を伝えた。 しかし、電話回線などが不通状態だったため、ニュース機器などからの情報が入ってこない。そんな時、1本の電話がなった。それは、リクエスト用の電話だった。リスナーも電気などが不通のため情報をつかむことができない。そこで、携帯ラジオなどを聴きながら、同局のリクエスト電話へかけてみて、状況を訪ねるような電話が多数かかってきた。 そこで、逆に電話をかけてきてくれたひとたちに、状況を聞いてみた。「ニュースの素材が入ってこないので、こういう形でしか情報を得ることができなかった」と当時を振り返る岩崎アナ。後に、各地に住む社員からも状況を報告する連絡が入ってきて、逐一スタジオから情報を伝え続けた。 「本当は裏づけして伝えなきゃいけない。けど、あの時はそんなことを言ってられなかった」。同時にそれが、約2日間近くスタジオから伝え続ける始まりの時になるとは、知る由もなかった。 また、社屋は後に全壊指定を受けた。別の場所にあったサテライトスタジオまでもが使えず、鉄骨むき出しのスタジオで情報を伝え続けた。「さすがに危険でしたね。余震がきたらどうしようとか。しかし、そんなこと言ってられなかったし」