「死んでいてくれないかな」松島トモ子、100歳で看取った母の介護と77歳で人生初のひとり暮らし
母娘二人で満州から決死の逃避行
「母の部屋に行くまでにドアが2つあって。母は『要介護4』から『要介護5』とどんどんひどくなっていきましたから、ドアを開けるまでの間に、“ああ、死んでいてくれないかな”と。何度そう思ったかわかりません」 だが松島が今あるのは、そんな母が命がけで自分を守ってくれたからだった。 1945年8月15日、太平洋戦争が終結。志奈枝さんは三井物産に勤務していた夫・高橋健さんの仕事の関係で、旧満州の奉天(現・瀋陽)で終戦を迎えた。 松島はその直前の7月に誕生。父・健さんは同年5月に召集され、行方知れずになっていた。 ソ連が日ソ不可侵条約を破棄して同年8月8日には、対日参戦。翌9日に満州に進駐を始めてからは、志奈枝さんら満州の日本人の毎日は凄惨を極めた。日本への帰還に命懸けになる日本人に、ソ連兵たちは横暴の限りを尽くしたからだ。 「そんな目を覆うばかりの状況の中、母はカーテンで袋を作って私を入れ、その袋を自分の身体の前に回して、さながらカンガルーの親子のような姿で日本に連れて帰ってくれたんです。私を前で抱いたのは、おんぶだと死んでもそれがわからないから」 母カンガルーの背中には、荷物を詰め込んだリュックサック。そして両手には食料を入れたバケツ。そんな母親に中国の人たちが、「奥さん、赤ちゃんを置いていきなさい! 死んでしまうから!」と声をかける。 「どうせ生きては帰れない。みんな善かれと思って声をかけ、日本人は子どもを置いていったんです。それでも母は私を手放しませんでした」 引き揚げ船には満足な食料もないし、嗜眠性脳炎が流行。子どもたちはバタバタと亡くなっていった。 「そんな中でも、母は私に精いっぱいの笑顔で接し、耳元で美しい声の子守歌を歌ってくれた。わずか10か月でしたから覚えているわけがないんですけれど、私は覚えていると思っています」 引き揚げ船の中で生き残った乳飲み子は、松島を含めてわずか2人だけ。 どれほどケアマネジャーにすすめられても、母の部屋に行くまでにどれほど“死んでいてくれたら……”と思っても、そんな母を、本人の意に反して施設に入れるなど、松島にはできなかった。