「死んでいてくれないかな」松島トモ子、100歳で看取った母の介護と77歳で人生初のひとり暮らし
壮絶だった自宅介護と一人暮らしの理由
それまで暮らしていた目黒の家を手放して一人暮らしを始めたのは、壮絶だった自宅介護と、その後のギャップに耐えられなかったから。 「“(母が亡くなって)ご臨終です”と言われたそのときから家に誰も来なくなって。それまでは朝9時に“ピンポーン”と玄関のベルが鳴ると、週で50人以上の介護関係者が家に出入りしていたんです。それが、臨終の瞬間から誰も来ない。コロナ禍で仕事の関係者とは外で会うようにしていたから、本当に、誰も来なくなっちゃった。広い家がしーんとして、精神的にまいってしまった。それで引っ越しを考え始めたの」 自宅介護で肉親を見送った人が口にする、介護中の戦争のような毎日と、その後の身にしみるような静けさ。 そのギャップに戸惑うのは、“雲の上の大スター”も決して例外ではなかった─。 始まりは2016年5月。 「母は中国生まれだったので中華料理が大好き。それで、母と親しい人たちだけで、少し豪華な中華レストランで誕生パーティーをしたんです」 志奈枝さんは好奇心旺盛な人で、人の話を聞くのが大好き。それなのに、そのときはどうしたことか、目の前の料理をガツガツと食べるばかりで、人の話を一切聞こうともしない。 「それでたしなめようとしたら、母のスカートが濡れていた。失禁していたんです」 そのあと自分がどう振る舞い、集まってくれた人たちにどう言い繕って帰宅したのか、松島は覚えていない。 「数日たって気を取り直してからも、“母をどうしてあげよう”とか“かわいそうに”とかは一切頭から飛んでしまっていた。“どうやってこの状態から逃げようか?”。そればかり考えていました」 不安に震える娘をよそに、以降は志奈枝さんの症状はつるべ落としの状態だった。
上品な母が罵詈雑言を吐き夜中になると飛び出す
商社勤めで香港に赴任していた父親のもと、現地のイギリス系女学校に通い、ペニンシュラホテルで社交界デビューをしたという志奈枝さんは、95歳のあの瞬間まで、絵に描いたようなレディだった、と松島は言う。 「家では母を“お母さま”と呼び、敬語で話すのが当然。“親に口答えなんてとんでもない”といった感じの母子でした。その母が、“こんな言葉、なんで知っているんだろう?”と思うような汚い言葉を吐いては、物を投げるようになったんです」 “娘は私に何も食べさせない!”“こんな年寄りをいじめて楽しいのか!?”と怒り狂う。夜中になると家を飛び出しては、人目もはばからず“人殺し!”と叫ぶ。 「それが“徘徊”なんてレベルじゃなくて、“遁走”でした。母はマラソンの選手だったから足がメチャクチャ速いの。夜中だと私もよく見えないから、本当に危なくて」 映画『エクソシスト』の悪魔にとりつかれた少女を思わせる形相で家具を押し倒しては、イスを投げつけた。 当然、松島も公的支援を受けるべく介護要請をした。ところがやって来た認定士が下した判定は、最も軽い「要介護1」。 介護認定のその日、志奈枝さんがソファに腰かけ、松島はその後ろに控えていた。認定士からの質問に志奈枝さんが、“お買い物にも自分が行く。お料理だって自分でできます”とすまして答える。 「後ろで聞いていて“ウソばっかり”と思うんだけど、母に口答えなんてできない私はさえぎったりできません。不思議なもので、相談員のような人が来ると、認知症の人ってシャンとするのね(笑)」 “最も軽い認知症”と判定されてしまったから、治療薬もごく穏やかな漢方薬が処方されるだけ。志奈枝さんがレビー小体型認知症であると正しく判定、「要介護4」であると認定されたのは、しびれを切らした松島が医師の交代を申し出たからだった。 「ホッとしたし、よく効く薬もたくさん出たけど、今度は本人が薬を飲んでくれない。薬を飲んでくれるようになるまで1年半かかりました」 認知症のなんとも切ない特徴に“最も近くで必死になってケアしてくれる人を憎む”というものがある。母一人、子一人の松島親子にとって、志奈枝さんの憎しみの対象は言うまでもなく松島だった。 「薬を飲ませようとすると、“毒を飲ませる!”と言って噛みつかれました」 毎朝5時に起きては志奈枝さんのおむつを替える生活に、罵詈雑言と“遁走”、それに暴力が重なる。ストレスのあまり松島は過呼吸になって体重は7キロも減り、たった33キロになってしまった。ライオンの襲撃にも負けなかった、あの松島トモ子が、である。 当然、周囲は心配し、ケアマネジャーも志奈枝さんの施設への入居をすすめた。だが松島はそれでも自宅介護の道を選ぶ。 「母が“施設には絶対に入らない! 施設に入れられるほど私は悪いことをしていない!”と断固、拒否しましたから。母がそこまで嫌だと言うならしょうがない」 志奈枝さんにそう言われてしまうと、受け入れざるを得なかった。松島にはこの母に、返したくても返し切れない大きな恩があったからだった。