次官だからこその「引きこもり」と「殺人」
元農林水産省・事務次官、熊沢英昭氏が長男の英一郎さんを包丁で刺して殺害した事件で、懲役6年(求刑懲役8年)の実刑判決が出されました。事務方トップの事務次官まで務めた元エリート官僚が起こした事件は、引きこもりという社会問題が絡んだこともあり、大きな話題となりました。 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は、この事件について「日本社会の文化的特質が表れている」といいます。その文化的特質とは何なのでしょうか。若山氏が独自の「文化力学」的な視点から論じます。
日本社会の文化的特質が浮かび上がる
元農林水産省・事務次官、熊沢英昭氏による長男殺害事件の判決が話題になった。懲役6年の実刑、マスコミの大方は「妥当な判決」という意見である。多分そうなのだろう。さまざまな事情はあるにせよ、殺人は殺人であり、現代の法治社会では許されない行為である。とはいえ情状酌量の余地はあって、この判決となったようだ。 判決に特段の異論はないが、僕はこの事件が、元次官というまさに日本社会の中枢にいる人間によって、ある種の覚悟をもってなされたということが、現在のこの国における、何らかの社会的・文化的問題を示唆しているような気がして、そのことを掘り下げた意見がなかったことを物足りなく感じた。また引きこもりの専門家は当然ながら被害者に同情的で、結果として、専門家に相談しなかった加害者を責めることになりがちであった。 次官という立場とその家庭の相克に、最近よくマスコミを騒がせる親族間殺人とは質の違う重さを感じるのだ。この重い事件に、報道から浮かび上がってくる以上の知識もなしに口を挟むのははばかられるが、ここで被害者の側にも、加害者に側にも立つことなく、あえて「元次官の長男殺人」という事件について、日本社会とその文化的特質、特に「家社会」と「家長」の問題を浮かび上がらせるものとして書いてみたいと思う。
イジメと親の地位
遠因はイジメである。 何不自由ないエリート家庭の子供として、評判の悪くない中学校に通いながら、イジメを受け、精神的に屈折したようだ。そこにアスペルガー症候群の疑いと診断されたことがあったという問題が絡む。 もちろんイジメは圧倒的にいじめる方が悪いのであるが、軽微なものは子供の社会に多かれ少なかれあることで、むしろ大人の社会以上に、敵意、嫉妬、差別といった感情がむき出しになる。思い出せば僕らもその中で育ってきた。その心理関係が子供どうしだけのものなら、子供の世界は子供の世界なりに、ある程度の摩擦や衝突を飲み込んでいく力がある。しかしそれが家庭の違い、親の力によるものである場合は少し難しい。特に、子供が親の立場を誇った場合、他の子供たちは敏感に反応する。 親が政治家や企業経営者など、地方の有力者なら、教師や親たちや地元の小社会に対する直接的な影響力が強いので、子供たちも警戒するし、むしろそれを社会性の一要素として咀嚼していく。しかし国家レベルの官僚、教育者、司法関係者などきわめて公的な立場の人間は、その公的な権限を私的に発動することはできないのだ。 実際には大臣以上の力をもつとされる事務次官ともなれば、日本ではもっとも強い権限をもちながら、その権限の濫用をもっとも慎まなくてはならない立場だろう。子供たちはそのことを敏感に察知する。つまり次官の子息だからこそのイジメがあったと考えられなくはない。