私たちはこれからどんなツケを払うことになるのか…なんと11年に及んだ「異次元緩和」がもたらしたもの
物価上昇にこだわる理由
--山本さんは、『異次元緩和の罪と罰』のなかで、「物価目標2%」への日銀の尋常ならざるこだわりが、期間限定だった金融緩和をずるずると11年続けることにつながり、もはや後戻りできない困難な事態を招いたと分析しています。なぜ、日銀は物価を上げることにそれほどまでにこだわったのでしょうか 山本:物価目標自体は1980年代の後半から各国の中央銀行が採用するようになっています。ただし、その多くは、インフレによって物価の高騰が続いた国が、物価を抑える目標として定めたものでした。日本の場合、これらの国とは違って、物価が上がらないデフレ的な状況が長く続いたため、物価を上げる目標として2%を設定しました。背景には、中央銀行として説明責任を果たしたほうがよいという考えがありました。 ただし、物価目標2%の捉え方は各国中銀でまちまちで、日銀のように物価目標2%を絶対視している中央銀行はなく、もっと柔軟な政策運営を行っています。 一方、異次元緩和では、物価目標2%を絶対視した結果、超緩和的な金融政策を達成目標の2年を超えて11年も続けることになりました。 先ほど申し上げましたように、もともと、この政策のベースになっているのは、「物価目標2%が必ず達成される」と国民に信じ込ませることに重点があったために、「絶対に2%は譲らない」という強い姿勢を示したかったのだと思います。 ただ、もともと2%という数字に絶対的な何か根拠があるわけではありません。アメリカでさえ、FRB(連邦準備制度理事会)が重視している物価指標(コアPCEデフレーター前年比)の実績は、高インフレが収束した1990年代半ば以降、ほとんどの期間で1%台でした。1%を超えたのは、直近のインフレを除くと、2005年から2007年の3年間だけです。しかもこの3年間は、平均するとわずか年率2.3%にすぎず、目安となる2%をわずかに超えただけです。にもかかわらず、この物価上昇は、住宅バブルを発生させました。そして、その後に起きた住宅バブルの崩壊はリーマンショックに繋がっていき、世界的な金融システムの不安と景気の後退へと連鎖していきます。やはり、振り返ってみると、2%という目標を絶対視するという政策はリスクが大きい政策だったように思います。 藤巻:2%を絶対視するなという主張については同感ですね。山本さんと少し違うのは、黒田日銀の異次元緩和には財政危機を先送りしたいという(隠れた)意図があるがゆえに、2%という物価目標に執着したのではないかと思っています。現状の物価は、2%を超えているにもかかわらず、「出口」がないから、安定的な物価目標2%を達成していないという理由で金融緩和を継続しているような気がします。 それともう一つ、これも昔から山本さんと同じ意見だったのですが、単に消費者物価指数だけではなく、資産価格も景気に大きな影響を与えます。特に顕著だったのが1985年から90年の資産バブルです。 表を見ていただくとわかりますが、バブル時代は、消費者物価指数は、1985年こそ2.0%でしたが、86年は0.8%、87年は0.3%、88年は0.4%しかありません。いまの2%よりもはるかに物価は低かったにもかかわらず、日本は狂乱経済と言われるほどに景気がよくなりました。84年に1万1542円だった日経平均は、89年には3万8915円と3.4倍近くに高騰し、地価も急騰しました。資産価格が暴騰したがゆえに景気が良くなりすぎて、バブルが起きたわけです。こうした動きを見ていると、また同じ間違いをするじゃないかと不安になってきます。 バブル時代は、円高がものすごい勢いで進んだこともあり、物価は上昇しませんでしたが、当時とは逆に現在は急激な円安が進んでいるので、資産効果によるインフレが起きる可能性もあります。 第2回記事<いまの日銀は、「中央銀行としてやってはならないこと」をやりまくっている…「日本が置かれた深刻な状況」の実態>では、「異次元緩和がもたらした財政規律の緩み」について議論する。 *本対談のきっかけとなった山本謙三『異次元緩和の罪と罰』(講談社現代新書)では、異次元緩和の成果を分析するとともに、歴史に残る野心的な経済実験の功罪を検証しています。2%の物価目標にこだわるあまり、本来、2年の期間限定だった副作用の強い金融政策を11年も続け、事実上の財政ファイナンスが行われた結果、日本の財政規律は失われ、日銀の財務はきわめて脆弱なものになりました。これから植田日銀は途方もない困難と痛みを伴う「出口」に歩みを進めることになります。異次元緩和という長きにわたる「宴」が終わったいま、私たちはどのようなツケを払うことになるのでしょうか。
山本 謙三、藤巻 健史