全日本ロードレース選手権クラス2連覇! ヨシムラ伝説のエース辻本聡|オートバイレースライダー レジェンドファイル
80年代から90年半ばまでAMAスーパーバイクや世界GP(現Moto GP)で活躍したハチマル世代のレジェンドライダーたちを紹介するオートバイレースライダー レジェンドファイル。 【画像29枚】全日本ロードレース選手権TT‐F1クラス2年連続チャンピオンを記念し限定販売されたスズキGSX-R750Rと辻本聡さん 第1弾は1985、86年に全日本ロードレース選手権を連覇した辻本聡さんを紹介する。 日本のバイクレースを語るうえで、1959年のマン島TTレースを外すことはできないだろう。純日本製マシンで挑戦したホンダは、125㏄クラスに日本人ライダーのみで4台のワークスマシンを参戦させ、6、7、8、11位を獲得。さらに2年後の61年、同レースで1~5位を独占し、世界にその存在を認めさせることになる。本田宗一郎はレースを「走る実験室」と呼び、本人は負ける姿を見たくないからとサーキットに足を運んだことはないものの、レースにかける情熱は人一倍だった。 そんな宗一郎と同じく、レースに情熱を傾けた存在といえばポップ吉村であろう。彼の作るバイクはワークスマシンに引けを取らず、ヨシムラのレースマシンは実質的にスズキのワークスとして当時は認識されていた。 1985~87年には3年連続で全日本ロードレース選手権TT‐F1クラスチャンピオンを獲得。その1985、86年のチャンピオンが辻本聡だ。同じ1985~86年は鈴鹿8時間耐久ロードレースに出場し、特にケビン・シュワンツと組んだ1986年は3位を獲得。当時世界に並み居るトップライダーのひとりとして数えられた。 ちなみに1986年の優勝後には優勝マシンであるGSX‐R750がGSX‐R750Rとして限定発売。「世界で最も速い市販車」とうたわれた。 この2年間の活躍によってヨシムラのエース辻本は87年よりAMAスーパーバイク選手権に全戦出場が決定。同年3月の前哨戦「デイトナ200マイルレース」で2位に入る活躍をみせる。 1987年のAMAスーパーバイクはたび重なるけがで往年の力に陰りが見えていたフレディ・スペンサーに代わり新たなホンダのエースライダーとなったウェイン・レイニー、後にレイニーの永遠のライバルとなるケビン・シュワンツ。そのシュワンツよりも速いタイムを叩き出していた辻本の3人がチャンピオン候補だった。 開幕戦では外国人枠で出場し、ゼッケン604だった辻本は、ロード・アトランタからAMAライセンスを取得しゼッケン114に。しかし、重量違反で出場ができず、実質的な辻本の開幕戦となるブレイナードを迎える。 事件はレース前日のフリー走行時に起こった。先導で走っていたシュワンツが転倒。後ろにいた辻本はマシンに乗り上げ大事故となり、頸椎と左足首を骨折。このレースはもちろん、その後の出場もできなかったが翌年復帰、89年の全日本GPにも出場している。 85年から87年に至る辻本の活躍は、日本人ライダーが世界に最も近付いた瞬間だったと言える。もしこの事故がなかったら、ここから数年間の歴史は大きく変わっていたであろう。 日本人が世界で活躍するのは、91年に上田昇、坂田和人、若井伸之。93年に原田哲也、岡田忠之、青木3兄弟が世界へと飛び出してから。やがて表彰台を日本人が独占する時代がやってくるが、まだ長い時間がかかるのである。 その後、辻本は鈴鹿8耐11回出場をはじめ、2014年まで現役レーサーとして活躍。現在はレース解説者として、カフェ「PILOTA MOTO」の店長として、今も昔と変わらずにバイクに関わっているのである。 SUZUKI GSX-R 750R 全日本ロードレース選手権TT‐F1クラス2年連続チャンピオン(85~86年。87年は大島行弥が優勝し、3連覇)を記念し限定販売されたスズキGSX-R750R。当時保安部品を付けただけのレーシングマシンと呼ばれ、その走りの強烈さとともに「世界で最も速い市販車」とよばれた。 そのマシンにもっともふさわしいライダーである辻本さんが所有していることは、バイクにとっても、本人にとっても、その時代を知るすべての2輪ファンにとっても幸せなことだ。 ちなみにここに掲載している写真は現在のもので、当時の写真ではない。往年のレジェンドライダー辻本聡がここに存在しているのである。 また辻本さんは、当時、米国でともに戦ったヨシムラの現社長である吉村不二雄さん、アサカワスピードの浅川邦夫さん、ブライトロジックの竹中治さんと共にデイトナのビンテージクラス出場を目指し、レースマシンの復刻を目論んでいる。 こちらも楽しみだ。
Nosweb 編集部