「模擬原爆」被弾地の“地獄”を伝える「平和祈願之碑」 富山市で犠牲者追悼慰霊式
「模擬原爆」を語り継ぐ「いしぶみ」が富山にある。米軍は1945年7月20日から終戦直前の8月14日までに広島・長崎への原爆投下の練習弾として「模擬原爆・パンプキン爆弾」本土に49発を投下、400人以上が犠牲になった。 このうち、富山市豊田本町には犠牲者の遺族が自費で建立した「平和祈願之碑」がある。当地で犠牲になった鈴木善作さん、レツさん夫妻ら住民16人を悼み、善作さんの息子である故・善蔵さんが88年、着弾地から数十メートルの所有地に退職金を元手に建立。内部には爆弾の破片と防空頭巾が収められた。以来、毎年身内だけで追悼していたが、5年ほど前からは犠牲者追悼慰霊式を執り行なうようになり、今年も同碑前で7月26日に開催。遺族、地域住民らのほか「富山大空襲を考える会」の僧侶や「富山大空襲を語り継ぐ会」の会員も参列した。戦後50年を迎えた95年、善蔵さんは「富山大空襲を語り継ぐ会」で当時の記憶を次のように語っている。 「爆弾が落ちた跡は、瓦礫が積み重なり、百メートル四方位に遺体の断片が散らばって、きちんと始末がされてはいなかった。後で聞くと、『実は、箱の中へ入れた遺体は、どれが誰のやら性別もわからず、手と足を寄せて、あてずっぽうで入れたのだ』ということだった。(略)現場を見ると、瓦礫の下に蠅が沢山群がっている。そこには必ず肉片があった。暑く、臭かった」(同会会誌第一集より) 想像を絶する惨状、まさに地獄である。さらに目の前の遺体がわが家族であるなら……そう考えると言葉を失う。 当時国民学校2年生で、着弾地から約100メートル先の自宅で爆弾の被害を受けた北村竹弘さん(86歳)は、脳梗塞を患い失語症が残る体で今年も例年通り参列。「病気で忘れてしまったこともあるが、あの日のことは覚えている。ものすごい音がして爆風が起き、大きな穴ができた。このようなことは二度と起きてはいけない」と懸命に語り、静かに手を合わせた。町内会長となったことを契機に地域住民の聞き書きをした近所の元・中学校の社会科教師の坂田正博さん(73歳)は「爆弾が落ちたところには巨大な穴ができ、50メートルほど先にあったタバコ屋は爆風で戸板が吹き飛んだという証言があった」と語った。