吉幾三は元アイドル?夏木マリの最初は清純派?五木ひろしも… 昭和のスターたちの意外なデビュー事情
吉幾三は元アイドル? 夏木マリは清純派デビュー? 五木ひろしは5回改名? 誰もが知るスターたちも、実は苦労の末に成功をつかんでいたようです。今回は昭和のスターたちの意外なデビュー曲と成功にいたるまでの道のりについて、中将タカノリ(シンガーソングライター・音楽評論家)と橋本菜津美(シンガーソングライター・TikToker)がラジオ番組で紹介しました。 30年以上の時を越えて電撃復帰した”伝説のアイドル”、ピアニスト西村由紀江と感激の対面! ※ラジオ関西『中将タカノリ・橋本菜津美の昭和卍パラダイス』2024年8月23日放送回より 【中将タカノリ(以下「中将」)】 今も昔も芸能界というのはそんなにたやすく成功をつかめるものではありません。きらびやかなスターたちの経歴も、よくよく調べると「売れる前はそんなことやってたんだ!」ということがよくあります。 【橋本菜津美(以下「橋本」)】 売れてからのできあがったイメージで見てしまうから、下積み時代を知ると意外なことってありますよね。 【中将】 そこで今回は昭和を代表するスターたちの意外な前歴やデビュー曲を一挙紹介したいと思います。全曲、売れてからとは別名義。菜津美ちゃんにはまず曲を聴いてもらって、誰なのか考えてもらいたいと思います。まずは、ザ・ワンダースで『明日への道』(1967)。 【橋本】 初めて聴く曲ですが……コーラスがすごく特徴的ですよね……。誰なんでしょう? 【中将】 こちらのグループには尾崎紀世彦さんがいたんです。『また逢う日まで』(1971)などの大ヒットで知られていますが、1970年のソロデビュー前はコーラス系のグループサウンズ、ザ・ワンダースで活動していました。 【橋本】 グループサウンズ出身だったんですね! 【中将】 はい、元ダーク・ダックスの和田昭治さんのプロデュースするグループで、『ウルトラセブン』の主題歌も担当しました(※「ジ・エコーズ」名義)。メンバーの朝紘一さんは解散後、朝コータローとしてCMソング『日立の樹』を歌ったことでも有名です。 【橋本】 すごいグループだったんですね! レコードジャケットを見たら、この顔はたしかに尾崎さん。すでにできあがってますね(笑)。尾崎さんはザ・ワンダースからどんな経緯でソロになられたんでしょうか? 【中将】 グループサウンズブームが終わってしまったのと、思うようなヒット曲に恵まれなかったということで、1969年秋に解散。その後、少し芸能活動から離れてナイトクラブの弾き語りで生活されていたそうですが、そこでも大反響。やっぱり業界が放っておかず、1970年にはソロデビューされるわけです。 さて、お次は、山岡英二さんで『恋人は君ひとり』(1973)。果たしてどなたでしょうか……。 【橋本】 アイドルソングっぽいのにすごい東北なまりですね(笑)。これは……。 【中将】 お気づきの通り、吉幾三さんのデビュー曲でした(笑)。 【橋本】 白いスーツにちょっと髪も長くて……初めはこんなスタイルでデビューされていたんですね! 【中将】 民謡歌手のお父さんのもと、青森県に9人兄弟の末っ子として生まれた吉幾三さん。歌手にあこがれ、中学校卒業後に上京。作曲家の米山正夫さんに師事し、1973年にアイドル歌手としてリリースしたデビュー曲が、この『恋人は君ひとり』です。 【橋本】 お名前も全然違うんですね。 【中将】 ヤンマーディーゼルのCMソングだったので、ヤンマー社長の名字「山岡」とエンジンを無理やり「エイジ」にして、つなげたんだそうです。結局売れませんでしたが、1977年に吉幾三として再デビューして以降のご活躍は、みなさんご存知の通りです。 男性が2人続いたので、その次は女性スターの意外なデビュー曲をご紹介します。中島淳子さんで『小さな恋』(1971)。 【橋本】 これはまた、ねっちょりした歌い方ですね……。歌からはわかりませんでしたが、レコードジャケットを見てわかりました。夏木マリさんですね。 【中将】 『絹の靴下』(1973)などセクシーな歌謡曲や、個性派女優としての活動で知られる夏木マリさんですが、実はレコードデビューは1971年、19歳の時に本名の中島淳子名義でリリースしたこの曲でした。 【橋本】 舞台版『千と千尋の神隠し』の湯婆婆や、Uber EatsのCMのイメージなので、ジャケットの白いフリフリのドレス姿はすごいギャップでした! 【中将】 そうなんです。楽曲も清純派ポップスで、アイドルっぽく売り出そうとした形跡があるのですが、いかんせん夏木さんのねっとりセクシーな歌い方がそれをぶち壊してしまっていて、なんとも珍妙な仕上がりになっています。 【橋本】 ぜんぜん『小さな恋』って感じじゃないですもんね。男女の複雑な情念が感じられて……(笑)。 【中将】 夏木さんはグループサウンズ好きでザ・テンプターズを追いかけたり、ジャニス・ジョプリンにも憧れていたそうです。ロック志向すぎてアイドルは向いてなかったのかもしれませんね。 【橋本】 ちなみになぜ「中島淳子」から「夏木マリ」になられたんでしょうか? 【中将】 『絹の靴下』で再デビューするにあたり、夏だったので「夏に決めよう」ということから命名されたそうです。本人は嫌だったらしいですが。先ほどの吉幾三さんにしたって、再デビューの時に知らない間にスタッフがテキトーに付けた名前だそうですからね(笑)。なにが上手くいくかなんてわからないもんですね。 【橋本】 本人が知らないうちに(笑)。そんなことってあるんですねぇ。 【中将】 次にご紹介するのは、独特の芸名で活躍する方のデビュー曲です。シュリークスで『涙が夕日に』(1971)。 【橋本】 すごくフォークな感じですね。なかなかヒントになる要素が少ないですが、これはどなたのデビュー曲でしょうか? 【中将】 これはイルカさんのデビュー曲なんです。『なごり雪』(1975)などの大ヒットで知られるイルカさんですが、元々はシュリークスというバンドで活動していました。シュリークスは早稲田大学フォークソングクラブ出身の神部和夫さんが、後にかぐや姫のメンバーになる山田パンダさんらを誘って結成したグループ。メンバーチェンジがあり、1970年にイルカさんが本名の保坂としえさんとして加入しました。『涙が夕日に』はイルカさん加入後の初シングル『君の生まれた朝』のB面になります。 【橋本】 後から加入したメンバーだったんですね! 【中将】 はい。その後、バンドはイルカさんと神戸さんだけになり、やがて二人は結婚。イルカさんはソロデビューし、神戸さんはマネージャー兼プロデューサーとしてその活動を支えました。 【橋本】 素敵な関係ですね。お仕事でもプライベートでも一緒! 【中将】 では、次が最後の曲になります。松山まさるさんで『新宿駅から』(1965)。 【橋本】 デビューからかなりお上手ですが……。 【中将】 これは、五木ひろしさんのデビュー曲でした。若干17歳の時の作品なのに、もうある程度スタイルができあがっている気がしますね。母子家庭の末っ子として貧しい少年時代を過ごした五木さんですが、中学卒業後に京都の音楽学校を経て状況。作曲家の上原げんとさんの内弟子になってデビューを目指されたそうです。実は同期の内弟子に松方弘樹さんがいたそうですが、五木さんの歌が上手すぎたのであきらめて俳優の道に進んだというエピソードがあります。 【橋本】 すごいお二人が並んでたんですね(笑)。同期がすごすぎてあきらめてしまうというのも芸能あるあるですね……。 【中将】 期待の中でデビューされた五木さんですが、残念なことに直後に上原さんが急死。なかなか芽が出ず、その後「一条英一」、「三谷謙」と改名、再デビューを続け、1970年にオーディション番組『全日本歌謡選手権』(読売テレビ)で優勝したことがきっかけで、ようやく現在の五木ひろしという芸名で再デビューすることになりました。実は五木ひろしとしてのデビューシングルを出す前に、一度だけ、作詞家の山口洋子さんが命名した「ナカガワジュン」という名前でもステージに立っています。なので、「五木ひろし」は5回目の芸名ということに。 【橋本】 なるほど……何度も出てこれるのはすごいけど、ご苦労されていたんですね。今回はいろんな方の意外なエピソードを聞かせていただきましたが、改名して成功している方が多いことにびっくりしました。 【中将】 昭和世代の、一度ダメでもあきらめない執念のようなものが、改名につながっているのかもしれないですね。
ラジオ関西