「硫黄島守備隊」は無惨にも見捨てられた…それでも必ず救援が来ると信じていた日本兵たち
なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。 民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が9刷決定と話題だ。 【写真】日本兵1万人が行方不明、「硫黄島の驚きの光景…」 ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。
高野建設の埋葬地の遺骨は収集対象外に
高野建設の作業員たちが作業中に発見した遺骨を〈そうっと安置した〉という場所。その位置が1953年度報告書に記載されていた。場所は〈キャンプ北方〉にあり〈無名戦士の墓〉と呼ばれているとのことだった。報告書の地図には〈日本人キャンプ〉と記されたエリアがあった。東西に延びる島中心部の滑走路の東の端と海岸の間。1932年ロサンゼルス五輪馬術金メダリストとして知られるバロン西(西竹一男爵)率いる戦車部隊の陣地があったあたりだ。 1953年度報告書によると、収集団は〈当初の計画ではこの墓地を発掘することにして〉いた。しかし〈埋葬遺骨が約七十体あり全部を発掘することは、作業力の関係上到底不可能であること〉などを考慮し〈発掘せず引続き■従業員に墓守りを願うことゝし〉たという。 そして収集団は午後6時50分に日本丸で島を発った。島内の滞在時間は9時間50分。この時点で、政府は、これにより硫黄島のすべての遺骨収集を終了するという判断を下していた。「象徴遺骨」方針により、こうして大半の遺骨は島内に残されるという運命を辿ることになった。 そんな1953年度報告書を読み終えて、僕は思い出した。硫黄島守備隊の生還者石井周治氏が1952年に刊行した『硫黄島にささぐ』(生活新社)の一節だ。 米軍との地上戦勃発から10日余りが過ぎた1945年3月初旬。〈私たち兵隊の間に、一つの噂が伝わつた。それは信仰のように私たちを力づけたが、三月十日にわが連合艦隊がその艦勢力と航空勢力を挙げて、島を救援に来るというのである。それがどれほどの真実性を持つているかどうかは誰も問題にせず、ただ必ず来る、来る、とその日をまるで正月を待つ子供のように、指折り数えて待つていた。(中略)私たちが最後の望みをかけて待つた陸軍記念日はかくてあつけなく終つてしまつた〉。 硫黄島守備隊は、本土から増援も救援もないまま玉砕した部隊だった。見捨てられたのだ。そのことを裏付ける史料もある。 軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌』(錦正社)だ。日誌によると、米軍上陸3日後の1945年2月22日、秦彦三郎参謀本部次長は会議で〈硫黄島ノ組織的抵抗ハ2週間ト判断ス〉と発言した。大本営ははなから短期で陥落すると認め、援護の発想はなかったのだ。その後、硫黄島に関する論議は3月17日まで一度もなかった。そのことからも、いかに見捨てられた戦場だったかが分かる。 援軍の願いも空しく散っていった兵士たち。彼らの遺骨は長く放置され続けた。その末にやっと訪れた遺骨収集団は半日だけの滞在で本土に帰っていった。遺骨に心があるのならば、こう思ったのではないか。 自分たちは二度も祖国に見捨てられたのだと──。
酒井 聡平(北海道新聞記者)