黒沢清監督の前衛性を紐解きながら『Cloud クラウド』を解説 菅田将暉が見せた真骨頂
映像やシーンそのものの魅力を主軸にして映画を撮っている黒沢清
前提として知っておきたいのは、黒沢清監督が立教大学の学生時代に、フランス文学の研究者であり映画評論家でもある蓮實重彦の薫陶を受けていたということだ。蓮實重彦が日本に持ち込んだのは、それまでに支配的だった、批評家アンドレ・バザンに代表される、作家の意図を重視する「作家論」的な映画の読み方から脱却し、哲学者ロラン・バルトや作家スーザン・ソンタグらが提唱したのと同様、画面に映るもののみを重視し、映画をより能動的にとらえていくという考え方だ。それは黒沢清を含め、多くの映画作家や批評家などに強い影響を与えることとなった。 この種の映画理論について、詳しくは「『ドライブ・マイ・カー』脚本の魅力を徹底解説 “解釈の遅延”という発想とジャンルの横断」で、スーザン・ソンタグの「反解釈」を基に説明しているので、こちらもぜひ読んでみてほしい。『ドライブ・マイ・カー』を撮った濱口竜介監督は、東京藝術大学大学院において、黒沢清監督の薫陶を受けているのである。 映画を、作家の思想を基に「解釈」してしまうと、画面に映るものがそれを象徴した“記号”に堕してしまうというのが、スーザン・ソンタグによる「反解釈」の指摘だ。そういった“意味性”を超えたところで画面を味わうことで、映像をより純粋なものとして享受しようというのが、その論旨である。それは、あくまで映画の受け取り方の一部に過ぎないが、黒沢監督がそういった考え方を映画の作り手として作品に反映させ、世界の映画祭で高い評価を得てきたというのは、紛れもない事実である。 つまり、黒沢監督の作品は基本的にストーリーやテーマに映像を従属させるよりも、映像やシーンそのものの魅力を主軸にして映画を撮っているということだ。その手法には、短所と長所がある。短所は、映画が提供する物語や、作家主義的なテーマ、そしてリアリティを求めるような観客が楽しみづらいという点。長所は、映画全体の意味との繋がりが一部で希薄になることで、映像やシーン自体から、より独立した魅力が立ち上ってくるといった部分だ。 これは、よりベーシックな映画づくりの手法と比べて、どっちが上で、どっちが下といえるわけではない。単にアプローチが異なるだけである。だが、後者がその希少性や前衛性から、コアな映画ファン、シネフィルを喜ばせがちな性質を持ったものであることは事実だろう。 本作『Cloud クラウド』の後半部分では、戦争映画や西部劇、そしてクライマックスではフィルムノワールかと思うような演出へとシフトしていく。ラストには、古い合成の手法「スクリーンプロセス」を使用したと思われる演出も見られる。転売やインターネットの繋がりが生み出す憎悪という題材を描ききり、メッセージを強くうったえようとするのならば、さすがにこのようなトリッキーな選択はしないはずである。そういった意味においても、本作は「映画」を意識した映画作品だと指摘することができる。 黒沢清監督作品を最大限に楽しむためには、観客の側も能動的に鑑賞しなければならない。そして能動的になるためには、このような文脈を理解することが必須になってくるはずだ。鑑賞する際に頭の中のチャンネルを切り替えて臨むことで、映画による新たな体験や感覚に目覚めることができるかもしれない。 本作に限っては、主演の菅田将暉が、そんな黒沢清監督の独特な世界にはまっていたかどうかというポイントもある。もともと黒沢作品では俳優たちが激しい感情を表に出す場面は少ない。劇中において役を演じる古川琴音が狂気に陥るような表情を見せ、菅田が無防備に状況を受け止めるしかない姿は、本作の意図的に無機質に仕上げられた質感に、俳優の演技が発する鮮やかな色が見える瞬間だ。そしてここに、菅田の真骨頂があるはずだ。 この俳優たちと黒沢作品との化学変化をどう評価するのかという部分においては、観客それぞれによって意見が分かれるところかもしれない。だが何にせよ、こういう試みがあってこそ、新作を撮る意味、俳優との出会いの意味があるということだろう。その意味においても、『Cloud クラウド』は鑑賞に値する作品だといえるのだ。
小野寺系(k.onodera)