ブルース・スプリングスティーン『ボーン・イン・ザ・USA』40周年、日本独自企画盤が特別である理由
ブルース・スプリングスティーン(Bruce Springsteen)の75歳の誕生日(9月23日)に合わせて、日本独自企画盤『ボーン・イン・ザ・U.S.A.(40周年記念ジャパン・エディション)』(7インチ紙ジャケット仕様)が9月25日(水)に発売される。 【動画】スプリングスティーン『ボーン・イン・ザ・USA』日本語字幕付きMVを一気見
◎『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』とは?
音楽史上にその名を永久に残すブルース・スプリングスティーンの通算7作目のオリジナル・アルバム。今から40年前、1984年6月4日にUSでリリースされ全米1位を記録。前代未聞の7枚のシングルすべてがトップ10入りし大ヒット。80年代、アメリカで最も売れたロック・アルバムの1枚で、その後全米だけで1700万枚以上を売り上げ、プリンスの『パープル・レイン』やピンク・フロイドの『狂気(The Dark Side of the Moon)』、『サタデー・ナイト・フィーバー』のサウンドトラックを上回る枚数となっている(翌年のグラミー賞では最優秀ロック・ヴォーカリスト賞を受賞)。全世界でも2200万枚以上のビッグ・セールスを記録。 日本では同年6月21日に発売され、50万枚を超える大ヒットとなった。アルバム発売に伴う「Born In The U.S.A.」ツアーは全世界で156公演をソールド・アウト、初来日公演も1985年4月に東京・京都・大阪で行われた。「ダンシング・イン・ザ・ダーク」「ノー・サレンダー」「グローリィ・デイズ」といった楽曲は今も彼のライブ・ショウの定番であり続けている。 「ダンシン・イン・ザ・ダーク」:アルバムからの1stシングル。全米第2位を記録したブルース・スプリングスティーンにとっての最大のヒットとなり、この曲で初のグラミー賞最優秀ロック・ヴォーカル・パフォーマンス部門を受賞した。アルバムが全世界的に大ヒットとなった大きな要因ともいえる曲だが、実はアルバムのために書かれた最後の曲だった。 最終的な選曲の段階で、マネージャーのジョン・ランダウがもう1曲、決定的なヒット・シングルとなる曲が必要だと要求し、アルバムのためにすでに70曲以上も書いていたブルースは「まだ曲が必要だと言うのか。文句があるならおまえが書け!」と言いつつも、ヒット曲を書く難しさと自分自身の抱える不満をうまく利用して、「鏡に映る自分の姿を確かめ、服と髪型と顔を変えたい」と、若者全般が抱える不満と不安を見事に表現する曲を書いた。このアルバムがブルースの地位をこれまでと別次元にまで持ち上げる重要作となると確信し、そのために確実にヒットする曲を求めていたジョン・ランダウの狙いは、ずばり的中。当時のシンセ・ポップの要素をとりこんだダンス・ロック曲に仕上げ、録音が出来上がったとき、すぐに地元のクラブでDJにかけてもらい、ダンスフロアの反応を見て、ヒットを確信したという。メロディーは軽快でキャッチー、ヴォーカルには素晴らしいエネルギーが満ち溢れている。そしてクラレンス・クレモンズが最後に素敵なソロを聴かせてくれる。 「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」:アルバムから3枚目のシングルとなり、全米シングル・チャートで9位を記録した、彼にとって最大の芸術的・商業的成功のひとつであり、「最も誤解されている作品」でもある。このアルバムで初めて導入したシンセサイザーのリフとスネアを強烈に叩きつけるドラムズが推進し、たった2つのコードで繰り返される、まるでファンファーレのような賛歌的な編曲の力強いロック曲ゆえ、「米国に生まれたんだ!」と高らかに宣言する単純な愛国歌と、ロナルド・レーガン大統領を含む多くの人びとに誤解されたが、実のところは「米国に生まれたのに……」という現状への苦々しい思い、やりきれなさを吐き出すように歌うプロテスト・ソングであり、ベトナム帰還兵への残酷な扱いと彼らの苦悩を描いた曲だ。 この曲が生まれた背景には、前述のように、ボビー・ミュラーとロン・コビックという2人のベトナム負傷帰還兵の反戦活動家と知り合い、帰還兵の支援に積極的に協力するようになったことがある。ベトナム帰還兵は、他の戦争の退役軍人が英雄的歓迎を受けたのに対し、祖国に戻ってもほとんど無視され、多くの人が心的外傷後ストレス障害やその他の病気に苦しんでいた。ブルースは帰還兵の人たちから直接聞いた話をもとに、1981年に当初は〈ベトナム〉という題名でこの曲を書き始めた。そんなところにポール・シュレイダー監督が、クリーヴランドで活動するバー・バンドの試練を描いた『Born In The U.S.A.』という映画の脚本を送ってきた。ブルースは脚本の表紙にあった題名をコーラスとして歌ってみた。結局、ブルースは映画出演の依頼を断り、その題名の歌を完成させる。(その代わりに、ブルースはその映画にために「Light Of Day」という曲を書き下ろし、それがそのまま新しいタイトルとなり、主題歌となった。映画『Light Of Day(邦題「愛と栄光の日々」)』は1987年に公開された)。 元々この曲はボトルネックネックギターで弾き語るブルージーなアレンジで作られており、1982年の『ネブラスカ』への収録も検討された。1995年のソロ・アコースティック・ツアーではこの曲を「これはプロテスト・ソングで、GI(兵士)のブルーズだ」と紹介し、アコースティック・ギター本の弾き語りで披露。あの賛歌的な編曲のヒット版で単純な愛国歌と誤解した人も、帰還兵の苦悩を描いた作品であると聴き間違いすることのない解釈だった。1997年に東京国際フォーラムで行われた日本公演でもこのアレンジで演奏された。 「アイム・オン・ファイア」:アルバムからの4枚目のシングルで、全米シングル・チャートで6位を記録。ブルース自身が初めて演技を披露したジョン・セイルズ監督のミュージック・ビデオでは、語り手は自動車修理工で、修理を手掛ける車の持ち主である上流階級の人妻に恋をする。ある夜、彼は彼女の車を届け、ベルを鳴らそうと考えたが、思いとどまる……というスプリングスティーンの「演技」を観ることができる非常に貴重な映像となっている。 「グローリィ・デイズ」:5枚目のシングルで、アルバム発売から約1年後の1985年5月発売にもかかわらず、全米シングル・チャートで5位を記録。元野球のスター選手の同級生、今は離婚して2人の子供がいる人気者だった女の子とバーで青春時代の「栄光の日々」を振り返るというストーリー。この曲で主人公は旧友との偶然の出会いについて歌うが、これはブルース・スプリングスティーンが通っていたフリーホールドのセント・ローズ・オブ・リマ・スクールの同級生で、13~15歳の頃に一緒にリトル・リーグで野球をした親友との実話。2人は音楽、スポーツそれぞれの道に進んだため、疎遠になってしまったが(親友はLAドジャースのトライアウトを受けるところまでいったとのこと)、1973年の夏、そんな2人がニュージャージー州ネプチューンのバーで偶然出会ったという体験をもとに書かれている。野球をするスプリングスティーンの姿が話題となったこのビデオは1986年のMTVビデオ・ミュージック・アワードで最優秀男性ビデオ賞と最優秀総合パフォーマンス賞の2部門にノミネートされた。今でもライヴで演奏され続けている大人気曲で、1985年の初来日公演では全8公演、毎回演奏されている。