レイプ被害者の「口を塞ぐ」という暴力│映画「プロミシング・ヤング・ウーマン」
なんのためにこんな行動を?
「しかしいったい何のために、この人はこんな行動を取っているのだろう?」と思わせつつ、カサンドラという女性の得体の知れない強さを印象付ける、ミステリアスでサスペンスフルな導入が秀逸だ。 昼間はカフェで働き、夜は出かけて頻繁に朝帰りし、友人も恋人もいない30歳になるカサンドラを、同居している両親は心配しつつ腫れ物扱いしている。 徐々にわかってくるのは、彼女の子どもの頃からの親友で同じ医大の優秀な学生だったニーナが、レイプ被害者であったこと。同級生から酒を飲まされ酩酊状態でレイプされたにもかかわらず、その被害の訴えを周囲からことごとく封じられたニーナはショックから医大を中退し、鬱に陥って自殺してしまったのだ。 ■「己の信じる法と倫理」に従って 『告発の行方』では、主人公は二次被害に苦しみつつも、最初はぎくしゃくしていた弁護士と共闘体制を確立し、目撃者の証言も得て、最終的に裁判に勝つことができた。しかしこのドラマにはそのいずれもない。被害者は死んでしまっており、何もかも取り返しがつかないのだ。 しかも加害者も含め、ニーナを見捨てた医大の「プロミシング・ヤング・マン&ウーマン」は、その後順調な道を歩み事件のことなど忘れたかのように人生を謳歌している。幼い頃から姉妹のように育ったニーナをケアするために自分も医大を中退したカサンドラが、彼らに強い憎しみを抱くのは当然と言えるだろう。 もちろんこういう場合、被害者の無念を知る者が加害者たちに復讐としての制裁を加えるという「私刑」は、法的にも市民道徳的にも許されていない。中盤からは、カサンドラが、その許されていないことを一つひとつ、犯罪として訴えられないギリギリの範囲で、計画的に敢行していくさまが描かれる。 彼女を突き動かしているのは、「レイプ被害がどういうものか、被害を黙殺したことがいかに重大だったかを、身をもって知り、考えてほしい」という強い願いだ。単なるリベンジを超えた、極めて公平な考え方が底にあるのだ。 ニーナの死がカサンドラにどれほど重大な影響をもたらしかは、彼女のファッションや部屋のインテリアに現れている。いずれもかなりガーリーなテイストで、少女時代のまま彼女の時間が止まっているのがわかる。 いずれにしろ、ニーナと同様「プロミシング・ヤング・ウーマン」だった自分は死んだ。法も市民道徳もこの事件に背を向けた。ならばこの先、法や市民道徳に囚われて生きる必要はないだろう。あとは「己の信じる法と倫理」に従って行動するのみだ‥‥。多くを語らないカサンドラの態度から想像される彼女の覚悟と信念には、ギリシャ悲劇のアンティゴネーを重ねたくなる。