すみれ「産後うつの最中に聞いた母・松原千明の死を乗り越えて。夢を追いかけることが、天国の母への親孝行」
◆はやく孫を見せてあげたかった 一方で、「ついにそのときがきたんだな」という思いもありました。母は私が小さいころから心身の不調を抱えていて、特に胃の調子がすごく悪かった。日本にきている間、ずっと入院しているようなこともあって、正直、母になにが起きてもびっくりしないよう、ここ数年は心の準備をしていたつもりでした。 子どもがほしいと考えるようになったのも、母にはやく孫を見せてあげたかったからです。そうしたら幸いにも夫との縁ができて、息子を授かりました。 ただコロナ禍でハワイと日本の行き来が難しくて、ハワイに行けたのはお腹が大きいときに一度だけ。母に夫を紹介できたのはうれしかったけれど、赤ちゃんはワクチンが打てないから、産後はハワイには行けませんでした。それは本当に心残りですね。 亡くなった母を日本に連れて帰るかは、ずいぶん悩みました。でも、最後に過ごす場所としてハワイを選んだ気持ちを尊重してあげたいな、と思って。だからお墓はハワイにあります。 母がお世話になっていたカウンセリングの先生のところにも、オリバーと一緒に行きました。オリバーは22歳だけど本当にしっかりしていて、「ママはここよりもっといい場所に行ったんだ。だからいまは幸せなんだよ」と言ってくれたんです。 でも突然、大切な家族を失った私たちの心のダメージは大きいものでした。なにかもっとできたのではないか、と自分を責めたり後悔したりもしましたから。カウンセリングというプロの力を借りることの大切さを実感しました。
文化の違いや言葉の壁に悩んで母がメンタルの不調に苦しむようになったのは、私が6歳のころだったと思います。父(石田純一さん)のことで毎日のようにパパラッチが家に押しかけてきて、玄関のチャイムがずっと鳴っていて。 本当は私にそんな様子を見せたくなかったでしょうけど、さすがにあれは隠しきれないですよね。あのときの母は、全国の人から見られているという恥ずかしさとか、父に浮気された悲しさとか、私と生きていく不安とか、いろいろな感情で苦しんでいたと思います。それでハワイに移住することになりました。 英語もほとんど話せないのに、よく決心しましたよね。自分だったら同じことができるかわかりません。その後、ポールさんと出会い、オリバーが生まれました。 ただ、産後のうつ状態にずいぶん苦しんでいました。産後はふっくらする人もいると思うんですけど、どんどん痩せてしまって。 私が心配するので、「ちゃんと食べてるよ」と言いながら元気に見せようとしてくれていましたが、実際はあまり食べていないことはわかっていました。胃はメンタルと繋がっているところだから、胃のせいもあって食べられなかったんじゃないかな。 ベッドから起き上がれず、私のピアノやバレエの発表会を見にこられないようなこともありましたし、アジア人の私は小学校でいじめを受けた時期が続いたんですが、母に心配をかけたくなかったので隠していました。 慣れない国で出産や子育てをするのは、やっぱり心細かったと思います。母は京都の人で古風なところのある女性だったから、文化の違いにも苦しんでいました。 それに、思うように英語が話せないと、喧嘩になっても言いたいことの半分も言えないじゃないですか。そのストレスは大きかったんじゃないかな。ポールさんに向かって、「私は日本に帰る」とか「日本人にそういう考えは理解できない」と言っているのもよく聞きました。 ポールさんと09年に離婚するまでにも時間がかかったし、アルコールの力も借りていて、何度か入院をしていました。