【光る君へ】「彰子」に子を産ませた結果… 一条天皇は天皇の座も命も失った
もはや出家して死ぬしかなかった
だが、ここで一条天皇を助けようという話にはならない。道長は好機とばかりに、翌26日、一条に知らせずに譲位を発議している。翌27日、一条は側近の行成を呼び出し、せめて敦康を春宮にできないか打診したが、行成は敦成の立太子を進言している。行成の理屈は、皇統を継ぐためには外戚の力こそ重要だから、というものだった。たしかに、この時代に天皇が政治を円滑に進めるためには後ろ盾が必要であり、その点で行成の進言は的を射ていた。 じつは、これに納得しなかったのは、敦康親王を手もとに置いて育ててきた彰子だった。彼女は自分が産んだ敦成親王や敦良親王が即位しなくてもいいと考えたわけではない。敦康が先に立太子し、先に即位したとしても、敦成も敦良もまだ幼児なのだから、いずれ即位できる。だが、すでに40代半ばになる道長には、それを待つ余裕はなかった。道長の外孫として敦成、敦良が生まれたということは、そういうことだった。 6月14日、一条天皇は道長に出家の意志を伝えた。その後、病状は悪化するばかりで、19日には出家を遂げた。そして21日、身を起こして辞世の歌を詠んだのちに意識を失い、翌22日に死去した。享年わずかに数え32だった。 道長の悲願をかなえて彰子に皇子を産ませたのちは、そのために地位も命も追われた人生だった。辞世の歌は、 露の身の 風の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる 事ぞ悲しき(露のように儚い私の身が、風の宿りにすぎないようなこの世に、あなたを残しておいて、塵がごとき世から出ていくのは悲しいことだ) 死の床に伺候していた彰子に向けて詠んだのだろうか。しかし、行成はこれを、一条天皇が寵愛した亡き皇后定子に向けて詠んだものと解釈している。定子とのあいだに、この時代には概念すらなかった「純愛」を貫いた一条天皇。もしかしたら、「塵」を「出」て「君」のもとに行ける幸福を感じていたのかもしれない。 香原斗志(かはら・とし) 音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。 デイリー新潮編集部
新潮社