英国の謎の地上絵「サーン・アバスの巨人」の年代がついに判明、モデルはヘラクレスか
ヘラクレスは中世初期のイングランドの英雄だった
巨人が描かれた当初は、ウェセックス地方の様々な場所からその姿を見ることができただろうと、ギットス氏は書いている。そして、この近くにラッパのように吹くと音が出る穴の開いた岩などがあることから、軍隊の集合場所として絵が描かれた可能性があるとしている。 それならば、戦いの英雄としてローマ帝国崩壊後もヨーロッパでよく知られ、中世初期のイングランドであがめられていたヘラクレスがモデルとなったと考えるのも不自然ではないと、モルコム氏は指摘する。ヘラクレスを描いたローマ時代後期の美術作品の多くは、裸でこん棒を持っていた。 モルコム氏とギットス氏はさらに、サーン・アバスの巨人が初めて描かれた後数百年も経ってから、初期イングランドの隠修士だった聖イードワルドを表すために再利用された可能性があると書いている。 巨人の持つこん棒は聖イードワルドが持っていたとされる花咲く巡礼杖に見立てられ、裸の胸に浮き出たあばら骨は禁欲的な隠修士の生活を表しているとして、この近くにあった聖イードワルドゆかりのベネディクト派修道院がこの土地の所有権を主張するために利用したという。 ギットス氏は、今後の研究でこの説を検証したいと話す。
謎多き有名人
最新の研究は確かな科学に基づいているものの、決定的な結論を出しているわけではない。ほかにも、サーン・アバスの巨人の起源に関する説はある。 18世紀のある古文書研究家は、ヘリスという異教の神が巨人のモデルであると提案したが、これは古いラテン語の文献に書かれている名前を読み間違えたことによる誤解だろうと、モルコム氏とギットス氏は考えている。 ナショナルトラストの調査で地球物理学調査を担当した考古学者のマーク・アレン氏は逆に、巨人はもともと聖イードワルドを表していたが、後にヘラクレスとして解釈されたと考えている。現代の基準であれば、聖人を裸で描くことは適切ではないように思われるかもしれないが、中世の時代にはほとんど気にされていなかったはずだという。 巨人の丘のすぐ南にあるサーン・アバス村の教区牧師を務めるジョナサン・スティル氏は、さらに別の説を支持している。巨人の絵は今回の研究が示しているよりもさらに古く、紀元前の鉄器時代にこの地に住んでいたデュロトリゲス族の紋章だったというのだ。 スティル氏は、アフィントンの白馬も鉄器時代にそれを描いた部族の紋章だったと考えられていることを指摘し、「サーン・アバスの巨人は、彼らの領土のちょうど真ん中に位置しています。当時の人々は、息子のために新しい妻をめとったり、娘のために新しい夫を迎えるといった儀式のために、この場所に集まっていたのではと思います」と話す。 起源は何であれ、サーン・アバスの巨人は今や地元の有名人だ。スティル氏は、さらにこう付け加えた。「人々はこの巨人をひどく誇りに思っています。最初に巨人を描いた人々も、とても誇りに思っていたと思います。この辺では最も『大きな』人物ですから」
文=Tom Metcalfe/訳=荒井ハンナ