ドロシーの秘密

　1911年2月15日、デイリー・ニュース紙が爆弾を投下した。ドロシーは失踪前の9月に宝石を質に入れて金をつくり、家族にはマサチューセッツ州ケンブリッジの女友達の家に遊びに行くと言って、実際には、交際相手の男性と一緒にボストンのホテル・エセックスに1週間滞在していたというのだ。 　男性の名はジョージ・S・グリスコム・ジュニアと言い、ピッツバーグ出身の40歳で、無職で、独身で、評判の悪い人物だった。 　グリスコムとドロシーの交際は、彼女が大学生のときから始まっていた。グリスコムには、別の令嬢との婚約が結婚式前夜に破談になるというスキャンダルがあった。友人の証言によると、グリスコムはドロシーにも結婚を申し込んだが、彼女の父親が強く反対していたという。 　アーノルド家の人々はこれらの報道を否定したが、グリスコムから直接事情を聞くために、ドロシーの母親と兄のジョンが数週間前にヨーロッパに出航していたことが明らかになった（ある新聞は、「グリスコム、海外のホテルでアーノルド嬢の兄に殴られる」という見出しの記事を掲載している）。 　グリスコムはドロシーの失踪については何も知らないと言い、それでもドロシーのことは愛していて、戻ってきたら結婚したいと語った。 　作家で歴史家のシルビア・ペッテム氏は、その著書『Cold Case Chronicles: Mysteries, Murders & The Missing（コールドケース・クロニクルズ：不思議な事件、殺人事件、行方不明事件）』で、ドロシー・アーノルド失踪事件を検証している。ペッテム氏によると、ドロシーは「当時の良家の子女に期待されていた型にはまることができなかった」女性だという。 　ドロシーは作家志望で、『マクルーア』誌に短編小説を投稿し、多くの芸術家が暮らす自由な雰囲気のグリニッジ・ビレッジで一人暮らしをすることを夢見ていた。しかし一人暮らしをすることは許されず、小説を投稿していることを家族にからかわれてからは、郵便局の私書箱を利用していた。 　陽気な性格と恵まれた生活とは裏腹に、ドロシーがグリスコムに宛てた手紙からは、彼女が抱えていた深い悲しみがうかがえる。 「マクルーアは私の小説を採用してくれませんでした」「挫折が私の顔を見つめています。私には、引き返すことのできない一本道しか見えません」「母は私が事故に遭ったと思い続けることでしょう」 　ドロシー失踪事件に関してペッテム氏が注目している出来事がある。 　1914年4月、ピッツバーグ郊外の「産科病院」が警察の手入れを受け、医師C・C・メレディスが逮捕された。彼は多くの妊婦を違法な堕胎手術で死亡させ、地下室で火葬しており、ドロシーも犠牲者の1人だったと噂されていた。なお、ドロシーがボストンでの密会で妊娠し、グリスコムの助言でピッツバーグに行ったというこの噂を、父フランシスは「馬鹿げている」と一蹴している。 　その2年後には、ある受刑者がニューヨークの金持ちから250ドルを受け取り、アーノルド嬢の遺体をニューヨーク郊外の住宅に運んで地下室に埋めたと告白した。警察はその地域の多くの家の床下を掘ったが、何も見つからなかった。 　ペッテム氏は、本を執筆した当時は、ドロシーは堕胎手術で死亡したのではないかと推測していたが、その後考えを変えた。「ドロシーは堕胎手術を受けてから、新しい人生を始めたのだと思います」 　社会保障番号がなかった時代には、失踪して新しい人生を始めるのは髪型を変えるぐらい簡単だったとペッテム氏は言う。1914年には、ロサンゼルスに暮らす「エラ・ネビンス」という名前の女性が、自分はドロシー・アーノルドだと主張している。「信じられないなら、妹のマージョリーに聞いてみてください。なぜ父が私の手紙に返事をくれないのか、彼女なら知っているでしょうから」 　とはいえ、同じようなことを言う人は数え切れないほどいて、アーノルド家には、偽のメモや「目撃情報」や「ドロシー」からの葉書が殺到していた。その中に1点だけドロシーのものによく似た筆跡の葉書があり、「私は無事です」とだけ書かれていた。 　アーノルド家は、公式にはドロシーは誘拐されて殺害されたと信じていると発表し、父フランシスは1922年に死去するまでそう言い続けた。けれども家庭では、彼はひそかに娘を探し続け、その費用は100万ドルにのぼったと伝えられている。彼女の母親も、娘はいつか戻ってくるという希望を終生捨てなかったと言われている。