危険はらむスンニ派とシーア派の宗派対立 中東で広がる
イラン革命とフセイン政権
1979年、イランで革命が起こりました。親米で巨額の軍事援助(対ソ連)を受けていた王制の国がひっくり返り、シーア派法学者集団が統治する「イスラム共和国」が成立したのです。これは当時の世界に大変な衝撃を与えました。湾岸アラブ産油国は王制、首長国制の違いはあれスンニ派の君主制で、シーア派人口を少数ながら抱えています。イランが「革命を輸出」するのでは、という警戒感は、自国の体制維持からすれば当然でした。革命の翌年からイラン・イラク戦争が始まり、8年間続きましたが、イランの封じ込めを狙うアメリカと湾岸アラブ諸国がサダム・フセイン大統領を後押ししていました。 イランとの戦争を終えたイラクは1990年、矛先を転じてクウェートに侵攻。湾岸戦争でアメリカはイラク軍をクウェートから撤退させましたが、イランに加えてイラクも封じ込めの対象にしました。そして2001年の9・11事件の後、米英は「対テロ戦争」の一環として、03年のイラク戦争でバース党政権を打倒しました。しかしアメリカは戦後体制をしっかり構想していませんでした。
複雑に入れ替わる抑圧と優遇
ここで問題が顕在化します。イラクではシーア派の方がスンニ派よりも人口が多いのですが、バース党政権は世俗主義を掲げ、宗教宗派の違いを政治の場で問題にすることを禁じていました。しかし実際には、スンニ派が優位になるような権力構造をつくって、シーア派の不満を押さえ込んでいたのです。その体制が、アメリカのいう「アルカイダ支援疑惑」、続いて「大量破壊兵器疑惑」なる“言いがかり”によって打倒されました。戦後3年間の混乱も含めて約65万の人々が過剰に死亡したと推計され、インフラや社会のシステムが滅茶苦茶に破壊されました。戦後、アメリカは「民主化」を実現するため、サダム独裁体制を支えていたスンニ派実務者を追放し、多数派のシーア派を優遇。皮肉なことに、この新政権はイランに接近する結果となります。 イラクのスンニ派からすれば、アメリカの威を借るシーア派政権が逆に自分たちを抑圧し始めた、となります。また湾岸アラブ諸国も、敵視するイランの影響力がイラクに及び始めたとして、対シーア派警戒心が高まります。加えて、イラクの隣国シリアのアサド大統領はシーア派からさらに分かれたアラウィー派。その隣国レバノンではシーア派のヒズボラが06年のイスラエルによる侵攻を撃退して喝采を浴びる、となれば「いよいよ」です。 こうして過去10年ほどの間に、歯に衣着せぬ物言いで有名なスンニ派法学者たちが、湾岸諸国の衛星放送やネットを通じて反シーア派的な言葉を続々と発信するようになりました。